福田與
福田 與(ふくだ あたえ、1906年(明治39年) - 1988年(昭和63年))は、日本の教育者。岡山県倉敷市出身で、京都府立第一高等女学校(現・京都府立鴨沂高等学校)を卒業後、小学校教諭として教育者の道を歩み始め、続いて京都府立聾学校教諭、さらに京都府立盲学校教諭として教育活動に従事し、聾・盲児のために一生を捧げた。
また、野の思想家「宮崎童安」に師事し、童安亡きあと、『地獄の聖書』『童安童話集』など童安の著書多数を自費出版したのをはじめ、有縁の人々の歌集や追悼集を数多く出版した。就中特筆すべきは、『新井奥邃の思想』『内観祈祷録・奥邃先生の面影』を自費出版した事であろう。福田家の一族に明治維新のとき、長州の勤皇運動を助けて活躍した勤皇家・福田理兵衛がいる。
生涯
[編集]1906年(明治39年)1月25日、岡山県倉敷市五日市に父・小原弥太郎、母・要の三女として出生。1912年(明治45年)4月、倉敷市立帯江小学校入学。1923年(大正12年)3月、岡山県立倉敷高等女学校(現・岡山県立倉敷青陵高等学校)卒業。同年4月、京都府立第一高等女学校国漢専攻科入学。1926年(大正15年)3月、京都府立第一高等女学校卒業。同年4月、京都市立崇仁小学校勤務。1927年(昭和2年)、崇仁小学校にしばしば来校の「宮崎童安」を知る。1928年(昭和3年)3月、崇仁小学校退職。
1929年(昭和4年)11月、宮崎童安の媒酌で、福田武雄と結婚。1930年(昭和5年)2月17日、崇仁小学校元教諭・有馬良治の追悼会で森信三の講話に感動、以後、森信三に師事。1932年(昭和7年)、京都府立聾学校に勤務。1933年(昭和8年)3月、京都府立聾学校退職。同年9月17日、野の思想家・高田集蔵に出会う。1939年(昭和14年)5月、聾歌人・岡本大無家を初めて訪問。同年9月、京都府立盲学校勤務。1949年(昭和24年)9月7日、高田集蔵から新井奥邃の「東海奇男子自述」の講義を受ける。
1953年(昭和28年)8月1日~7日、開顕社主催の第一回夏安吾に参加。1960年(昭和35年)3月、京都府立盲学校退職。1962年(昭和37年)7月、歌集『草の花』を発行。1965年(昭和40年)9月、『木田茂追憶集』発行。1967年(昭和42年)、個人誌「雲」創刊。1968年(昭和43年)2月13日、森信三のお供で白幽子隠棲の跡を訪ねる(山下英吉の案内による)。1969年(昭和44年)5月24日、岡本大無の歌碑除幕式に参列(京都市北区紫野大徳寺町来光寺門前)。
同年7月27日、第一回京都読書会を開催。1971年(昭和46年)6月25日、藤井実応師の導きで、信州鉢伏山の念仏道場へ初参加。1974年(昭和49年)9月、夫・武雄死去。1975年(昭和50年)8月、宮崎童安著『地獄の聖書』発行。同月3日、脳血栓のため倒れる。1976年(昭和51年)3月、個人誌「雲」廃刊(51号)。1978年(昭和53年)1月、『童安さんの思い出と遺稿』発行。1984年(昭和59年)2月25日、『新井奥邃の思想』『内観祈祷録・奥邃先生の面影』を発行。
1986年(昭和61年)3月、日本バプテスト病院に入院。1987年(昭和62年)11月1日、第一回実践人京滋研修会に参加。1988年(昭和63年)1月8日、外出中転倒し大腿骨を骨折、京都四条病院に入院。同月24日、京都四条病院にて逝去(83歳)。同月27日、京都市左京区浄土寺換骨堂にて葬儀。
編・著書
[編集]- 『小山壮太郎先生遺影集』(福田與、1953年)
- 『草の花-自選歌集』(初音書房、1962年)
- 『岡本大無歌集』(福田與、1963年)
- 『木田茂追憶集』(福田與、1965年)
- 『織姫-前野博司病間はがき集』(福田與、1969年)
- 『大無遺稿』(福田與、1973年)
- 『童安さんの思い出と遺稿 』(福田與、1978年)
- 『奥邃先生の面影』(福田與、1984年)
- 『満点の星を仰ぎて』(福田叡子、1986年)
参考文献
[編集]- 工藤直太郎『新井奥邃の思想』(福田與、1984年)
- 新井奥邃『内観祈祷録』(福田與、1984年)
- 福田與編『奥邃先生の面影』(福田與、1984年)
- 南部彰造『新編福田理兵衛』(福田慎吾、2005年)
- 福田武雄『東海道中仙道旅日記』(福田與、1977年)
- 刊行会編『福田與先生回想録』(回想録刊行会、1989年)
- 刊行会編『福田與追悼文集』(高田周蔵著書刊行会、1988年)
- 内藤利子編『母子草-久佐乃葉歌会合同歌集・福田与追悼特集』(久佐の葉歌会、1988)