福田須磨子
福田 須磨子 ふくだ すまこ | |
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誕生 |
1922年3月23日 長崎県長崎市 |
死没 |
1974年4月2日(52歳没) 大阪府豊中市 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 長崎県立長崎高等女学校 |
活動期間 | 1956年 - 1973年 |
代表作 | 『われなお生きてあり』(1968年) |
主な受賞歴 | 第9回田村俊子賞(1969年) |
デビュー作 | 『詩と随想・ひとりごと』(1956年) |
福田 須磨子(ふくだ すまこ、1922年3月23日 - 1974年4月2日)は、日本の詩人・エッセイスト・作家。長崎原爆の被爆者である[1]。原子爆弾の後遺症や生活の困窮を抱えながら[2]、原子爆弾の非人道性を訴えた。
生涯
[編集]1922年(大正11年)3月23日、長崎県長崎市浜口町で青果商を営む父・福田猶次郎、母・サキの5人兄妹の末娘として生まれる[3][4][5][注釈 1]。兄二人は須磨子の幼少期に相次いで亡くなっている[4]。
1938年(昭和13年)、長崎県立長崎高等女学校を卒業[4]。その後はタイピスト学校に通い同年5月に三菱電機長崎製作所に就職したが、半年ほどで退社[7][4]。1939年(昭和14年)9月、高浜村尋常小学校[8]の代用教員となる[4]。村在住の一詩人の影響を受け文学に興味を持つ[4]1941年(昭和16年)、高浜村の元同僚と結婚するも、2年後に離婚し浜口町の実家に帰る[4]。
1942年(昭和17年)、短歌会「青い港」「アララギ」に入会。1944年、長崎師範学校[9]の会計課に就職[4]。1945年(昭和20年)8月9日、勤務先で被爆[4][注釈 2]。同居していた父母と長姉は自宅(爆心地から約0.6Km)で被爆死[4]。
1946年(昭和21年)、高熱・疲労感・脱毛の症状が出る。1952年(昭和27年)再婚[11](10年後の1962年に離婚[12])。1955年(昭和30年)4月、紅斑症(エリテマトーデス)を発症。同年8月、朝日新聞に平和祈念像建設に疑問を投げかけた詩「ひとりごと」が掲載され大きな反響を受ける[13]。これをきっかけに「長崎生活をつづる会」に入会。10月、長崎市立市民病院に入院[7]。
1956年(昭和31年)、ガリ版刷りの詩集『詩と随想・ひとりごと』を上梓[13][14][11]。1958年(昭和33年)に第二詩集『原子野』(現代社)を刊行。1960年(昭和35年)日米安保闘争以後、原水爆禁止運動に積極的に関わるようになる[12]。1963年(昭和38年)、第三詩集『烙印』を刊行した[7]。
1968年(昭和43年)、自伝小説『われなお生きてあり』を出版し、翌年第9回田村俊子賞を受賞[12]。同年、リハビリのために大阪府の星ケ丘病院に入院[12]。1970年(昭和45年)3月、大阪府四条畷市へ転居する[15]。同年「便宜結婚」と称し三度目の結婚をするも3年後に離婚[15] [7]。大阪での入院生活は、結婚して大阪に移り住んでいた次姉が見守った[16]。
1973年(昭和48年)10月、長崎市に一時帰省[7]。1974年(昭和49年)1月、大阪の豊中市民病院に入院[15]。以後入退院をくり返し、4月2日深夜、52歳で死去[15]。
没後の顕彰
[編集]1975年(昭和50年)7月、「福田須磨子を偲ぶ会」が結成される[7]。1975年(昭和50年)8月2日、長崎市の爆心地公園に詩碑が建立された[7]。毎年、命日である4月2日に爆心地公園にある詩碑前で「福田須磨子忌の集い」が開かれている[17][18][19]。
没後50年の集い
[編集]2024年4月2日、長崎市において国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館で「没後50年の集い」が開催された。講演、詩の朗読、詩に曲を付けた歌の披露などがあった。このあと、爆心地公園にある詩碑の前に集い、黙とうし花を手向けた[20][21][注釈 3]。
「令和6年 長崎平和宣言」にて
[編集]2024年8月9日、長崎県長崎市松山町にある平和公園の平和祈念像前で行われた被爆79周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典 [22]の中で長崎市長鈴木史朗は、福田須磨子の詩を引用して長崎平和宣言を行った[23]。
著書
[編集]- 『原子野』現代社、1958年
- 『烙印』長崎原爆被災者協議会、1963年
- 『生きる』(被爆後二十年の生活記録)長崎原爆被災者協議会、1965年
- 『われなお生きてあり』筑摩書房、1968年
- 長崎の証言の会(編)『原子野に生きる 福田須磨子集』汐文社《長崎の証言双書 1》、1989年
編著等
[編集]- 『長崎の証言 第4集』長崎の証言刊行委員会、1972年
- 長崎原爆青年乙女の会(編)『もういやだ』第1集復刻版、あゆみ出版、1970年
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ “福田須磨子の遺作見つかる”. 長崎新聞. (2017年7月31日) 2024年8月11日閲覧。
- ^ “原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第5部「礎」 3”. 長崎新聞. (2015年11月17日) 2024年8月11日閲覧。
- ^ 原子野に生きる, p. 76.
- ^ a b c d e f g h i j 原子野に生きる, p. 236.
- ^ 長崎大学病院の下の通り(山王通り)にあった。現在、その地には長崎市の案内板が設置されている
- ^ 布袋厚 2020, p. 071.
- ^ a b c d e f g 「福田須磨子略歴」長崎の証言の会(編)『原子野に生きる -福田須磨子集-』汐文社、1989年[要ページ番号]
- ^ かつて西彼杵郡高浜村にあった小学校。戦後、長崎市立高浜小学校となり、2010年3月に閉校
- ^ 現在、この地には、長崎大学教育学部附属小学校がある。
- ^ 布袋厚 2020, p. 035.
- ^ a b 原子野に生きる, p. 237.
- ^ a b c d 原子野に生きる, p. 238.
- ^ a b “〔発言者〕 福田須磨子”. RECNA 長崎大学核兵器廃絶研究センター. 2022年8月29日閲覧。
- ^ “«さもしいといって下さいますな» 福田須磨子さんの思い 原爆を背負って(30)”. 西日本新聞社. 2022年8月29日閲覧。
- ^ a b c d 原子野に生きる, p. 239.
- ^ “(次姉の実名)さんの墓、愛野に”. 長崎新聞. (2017年6月18日) 2017年8月10日閲覧。
- ^ “詩に思いに触れ反戦決意 福田須磨子さんしのぶ集い”. 長崎新聞社. 2022年8月29日閲覧。
- ^ “福田須磨子忌の集い 高校生ら詩を朗読、平和誓う /長崎”. 毎日新聞社. 2022年8月29日閲覧。
- ^ 毎日新聞 (2023年4月3日). “被爆詩人「福田須磨子忌の集い」 参加者が平和を誓う 長崎・爆心地公園”. https://mainichi.jp/. 毎日新聞. 2023年8月12日閲覧。
- ^ 長崎新聞 (2024年). “「反原爆の詩人 福田須磨子さん没後50年 戦後も苦しむ被爆者の思いに触れ 長崎で集会 朗読や歌を披露”. https://nordot.app/. 2024年4月3日閲覧。
- ^ KTN テレビ長崎 (2024年). “「原爆詩人」福田須磨子さん没後50年 反核平和を訴え集い(ニュース)”. https://www.ktn.co.jp. 2024年4月3日閲覧。
- ^ 被爆79周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典 - YouTube
- ^ 長崎市長 鈴木史朗 (2024年8月9日). “令和6年 長崎平和宣言”. https://www.city.nagasaki.lg.jp/. 長崎市役所. 2024年8月11日閲覧。
参考文献
[編集]- 『原子野に生きる : 福田須磨子集』汐文社、1989年。ISBN 481130070X。
- 『ふるさと文学館』第49巻 ぎょうせい、1994年(『ひとりごと』『瓦礫の中の群像』を収録)
- 家永三郎ほか(編)『日本の原爆記録 20』日本図書センター、1991年(『原子野』を収録)
- 家永三郎(編)『日本の原爆記録 8』日本図書センター、1991年
- 長崎県平和運動センター単産被爆者協議会連絡会議(編)『グラウンド・ゼロからの再生 被爆60周年・証言集』長崎県平和運動センター単産被爆者協議会連絡会議、 2005年
- 『長崎の女たち』長崎女性史研究会(『原爆を創る人々に』を収録)
- 布袋厚『復元! 被爆直前の長崎 原爆で消えた1945年8月8日の地図』長崎文献社、2020年8月8日。
関連項目
[編集]- 正田篠枝 - 広島原爆を詠んだ作歌で知られる歌人。
外部リンク
[編集]- 福田須磨子プロフィール 長崎県立長崎図書館 郷土資料センター 長崎県の郷土資料 作家プロフィール・作品(50音順)
- 福田須磨子詩碑(ふくだすまこしひ)
- 長崎原爆被災者協議会(Nagasaki Atomic bomb Survivors Council) 長崎平和宣言に引用された原爆詩人・福田須磨子とは? - YouTube
- KTNテレビ長崎 【アーカイブ配信】「伝えたいナガサキ」~被爆79年 被爆地の次の一歩~ 長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典【KTN】 - YouTube