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秀常寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
秀常寺しゅうじょうじ
所在地 埼玉県飯能市大字双柳515
位置 北緯35度51分22秒 東経139度20分3秒 / 北緯35.85611度 東経139.33417度 / 35.85611; 139.33417
山号 双柳山
宗派 真言宗智山派
本尊 不動明王
創建年 江戸時代初期[1]
開基 良慶
札所等 高麗三十三ヶ所観音札所
法人番号 1030005014586 ウィキデータを編集
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秀常寺(しゅうじょうじ)は、埼玉県飯能市にある真言宗智山派寺院高麗坂東33札所の八番札所[2]

概要

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号は、双柳山観音院(そうりゅうざんかんのんいん)[3][4][5]。『飯能市史』によれば、双柳山三光院[2]。本尊は不動明王。他に正観世音菩薩薬師如来地蔵菩薩阿弥陀如来などがある[2]

慶長16年(1611年)に没した法印良慶が開山した[3][5]慶安年間(1648年 - 1651年)に観音堂領3石の朱印を与えられた[3][5]元禄3年(1690年)に観音堂再建の棟札がある[2]正徳5年(1715年)に没した法印宝遍が中興開山した[3][5]。『新編武蔵国風土記稿』には「秀常寺 雙柳山観音院と号す、新義真言宗横見郡今泉村金剛院末なり」とある[6][7]江戸時代から明治初期の神仏分離まで稲荷神社別当を務めていた[8]

慶応4年(1868年)の飯能戦争の際に能仁寺観音寺などと共に振武軍(幕府軍)が立てこもった寺の一つであり、官軍の攻撃により焼失したが[9]、明治2年(1869年)に再建された[10][11]。明治17年(1884年)に本堂再建の棟札がある[2]

境内

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本堂、観音堂[2]、庫裡[3]。『武蔵国郡村誌』によれば、観音堂は延久3年(1071年)に創建され、元禄3年(1690年)に再建された[11]

山門入口の地蔵の脇に置いてある「弘法大師の子授け石」(別名腰掛石)[2]には、弘法大師がこの石に子授けの力を与えたという言い伝えがある[12]

行事

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花祭り彼岸会施餓鬼会、新年祈願祭[2]

脚注

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参考文献

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  • 浅見徳男『埼玉ふるさと散歩 〈飯能市・名栗村〉』さきたま出版会、1990年。 
  • 浅見徳男『飯能の幕末』飯能郷土史研究会、2006年。 
  • 蘆田伊人 編『大日本地誌大系 ⑮ 新編武蔵国風土記稿 第9巻』雄山閣、1977年。 
    • 蘆田伊人 編「双柳村」『大日本地誌大系』 第13巻 新編武蔵風土記稿 巻ノ179高麗郡ノ4、雄山閣、1929年8月、132頁。NDLJP:1214901/73 
  • 大江千尋ほか編『埼玉宗教名鑑』埼玉新聞社、1978年。 
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 11 埼玉』平凡社、1980年。 
  • 埼玉県 編『武蔵国郡村誌 第5巻』埼玉県立図書館、1954年。 
  • 埼玉県神社庁神社調査団 編『埼玉の神社 入間・北埼玉・秩父』埼玉県神社庁、1986年。 
  • 埼玉県佛教会監修『埼玉のお寺 埼玉県寺院全集』千秋社、2001年。 
  • 飯能市史編集委員会編『飯能市史 資料編Ⅴ (社寺教会)』飯能市、1982年。 
  • 飯能第一国民学校 編『飯能郷土史』国書刊行会、1981年。 原本は1944年に飯能翼賛荘年団から発行。

関連項目

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