秋元永朝
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 元文3年4月15日(1738年6月2日) |
死没 | 文化7年7月9日(1810年8月8日) |
改名 | 岩五郎(通称)、永朝 |
戒名 | 大隆院殿慈寛永朝大居士 |
墓所 |
東京都台東区上野の東叡山護国院 墓石:群馬県前橋市の光厳寺 |
官位 | 従五位下、摂津守、従四位下、但馬守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 出羽国山形藩主 |
氏族 | 上田氏→秋元氏 |
父母 |
父:上田義当(初代藩主秋元凉朝の実兄)、母:上田義行の娘 養父:秋元凉朝 |
兄弟 | 上田義陳、竹中元長、上田義珍、秋元永朝、卯之助、上田義篤 |
妻 |
正室:井伊直幸の娘 継室:牧野貞長の娘 |
子 |
修朝、知朝、久朝、娘(本多忠典正室)、 娘(土井利行婚約者・本多康完正室のち毛利広鎮継室) |
秋元 永朝(あきもと つねとも)は、出羽山形藩の第2代藩主。館林藩秋元家8代。
生涯
[編集]元文3年(1738年)4月15日、5000石を領した大身旗本・上田義当の四男として生まれる。義当は初代藩主秋元凉朝の実兄であった。凉朝が初め養子としていた逵朝が早世したため、宝暦10年(1760年)2月に凉朝の養子となる。7月には従五位下、摂津守に叙位・任官する。明和5年(1768年)5月24日、凉朝が隠居したため家督を継いだ。
安永3年(1774年)12月、奏者番に任じられる。安永8年(1779年)9月、仕事中における失態があったため、10月まで出仕停止処分となった。安永9年(1780年)12月、但馬守に遷任する。
天明3年(1783年)、村山郡が凶作となり、それが原因で天明4年(1784年)5月に藩内で米騒動・打ちこわしが起こった。天明8年(1788年)7月、奏者番を辞任する。寛政10年(1798年)12月、従四位下に昇叙する。
文化7年(1810年)7月9日に死去した。享年73。跡を五男の久朝が継いだ。なお、永朝は将棋を愛好し、八世名人九代大橋宗桂の弟子に名を連ねた。
系譜
[編集]父母
正室、継室
子女