秋山義兌
秋山 義兌 | |
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生誕 |
1886年10月3日 日本 京都府 |
死没 |
1945年8月17日(58歳没) 日本統治下朝鮮 咸鏡南道咸興 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 |
1908年 - 1941年 1944年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
秋山 義兌(あきやま よしみつ、1886年(明治19年)10月3日[1] - 1945年(昭和20年)8月17日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級[2]
経歴
[編集]1886年(明治19年)に京都府で生まれた[1]。1908年(明治41年)5月27日に陸軍士官学校第20期を卒業し[3]、12月25日に歩兵少尉任官[3]。1920年(大正9年)に陸軍大学校第32期卒業[3]。1932年(昭和7年)陸軍歩兵大佐に進級し、陸軍士官学校附となる[2]。1934年(昭和9年)に歩兵第78連隊長に就任し[2]、龍山に赴任[4]。1935年(昭和10年)に第10師団参謀長に転じ[2]、内地に帰還[4]。
1937年(昭和12年)3月に陸軍少将に進級し[2]、第9師団隷下の歩兵第6旅団長に就任[4]。同年7月に上海派遣軍戦闘序列に編入され、日中戦争に出動[4]。第二次上海事変、南京戦に参加。南京戦では、歩兵第6旅団隷下の歩兵第7連隊が南京城内での掃討戦に参加している[4][5]。1938年(昭和13年)に第4師団司令部附となり[1]、満州に転じる[5]。1939年(昭和14年)1月には第12軍隷下の独立混成第5旅団長に就任し、北支に展開。同地の警備に当たり、魯南作戦、魯東作戦に参加[5]。同年8月に陸軍中将に進級し[2]、1940年(昭和15年)に第54師団長に親補され[1]、姫路に駐屯した[5]。1941年(昭和16年)8月25日に待命[2]、8月31日に予備役に編入された[1]。
1944年(昭和19年)8月22日に召集され、留守第55師団長に親補される[1]。1945年(昭和20年)3月に中部軍管区兵務部長に転じ[6]、7月5日に関東軍総司令部附を経て[7]、7月16日に第137師団長に親補される[8]。同師団は在満州邦人の応召で編成された師団で[1]、朝鮮半島北部防衛のための陣地構築に当たり、終戦を迎えた[9]。終戦に伴う処置を終えた8月17日に咸興で自決した[10][11]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h 福川 2001, 21頁.
- ^ a b c d e f g 外山 1981, 255頁.
- ^ a b c 伊藤 2018, 89頁.
- ^ a b c d e 伊藤 2018, 90頁.
- ^ a b c d 伊藤 2018, 91頁.
- ^ 「第74号 昭和20年3月31日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120937900
- ^ 「第152号 昭和20年7月6日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120962400
- ^ 「第158号 昭和20年7月16日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120963000
- ^ 伊藤 2018, 92頁.
- ^ 伊藤 2018, 88頁.
- ^ 伊藤 2018, 93頁.
参考文献
[編集]- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。
- 伊藤禎 著『大東亜戦争責任を取って自決した陸軍将官26人列伝』展望社、2018年。ISBN 4885463513。