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秋山義兌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
秋山 義兌
生誕 1886年10月3日
日本の旗 日本 京都府
死没 (1945-08-17) 1945年8月17日(58歳没)
大日本帝国の旗 日本統治下朝鮮 咸鏡南道咸興
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1908年 - 1941年
1944年 - 1945年
最終階級 陸軍中将
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秋山 義兌(あきやま よしみつ、1886年明治19年)10月3日[1] - 1945年昭和20年)8月17日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級[2]

経歴

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1886年(明治19年)に京都府で生まれた[1]1908年(明治41年)5月27日陸軍士官学校第20期を卒業し[3]12月25日歩兵少尉任官[3]1920年(大正9年)に陸軍大学校第32期卒業[3]1932年(昭和7年)陸軍歩兵大佐に進級し、陸軍士官学校附となる[2]1934年(昭和9年)に歩兵第78連隊長に就任し[2]龍山に赴任[4]1935年(昭和10年)に第10師団参謀長に転じ[2]、内地に帰還[4]

1937年(昭和12年)3月に陸軍少将に進級し[2]第9師団隷下の歩兵第6旅団長に就任[4]。同年7月に上海派遣軍戦闘序列に編入され、日中戦争に出動[4]第二次上海事変南京戦に参加。南京戦では、歩兵第6旅団隷下の歩兵第7連隊南京城内での掃討戦に参加している[4][5]1938年(昭和13年)に第4師団司令部附となり[1]、満州に転じる[5]1939年(昭和14年)1月には第12軍隷下の独立混成第5旅団長に就任し、北支に展開。同地の警備に当たり、魯南作戦、魯東作戦に参加[5]。同年8月に陸軍中将に進級し[2]1940年(昭和15年)に第54師団長に親補され[1]姫路に駐屯した[5]1941年(昭和16年)8月25日に待命[2]8月31日予備役に編入された[1]

1944年(昭和19年)8月22日に召集され、留守第55師団長に親補される[1]1945年(昭和20年)3月に中部軍管区兵務部長に転じ[6]7月5日関東軍総司令部附を経て[7]7月16日第137師団長に親補される[8]。同師団は在満州邦人の応召で編成された師団で[1]、朝鮮半島北部防衛のための陣地構築に当たり、終戦を迎えた[9]。終戦に伴う処置を終えた8月17日咸興で自決した[10][11]

脚注

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参考文献

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  • 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738 
  • 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026 
  • 伊藤禎 著『大東亜戦争責任を取って自決した陸軍将官26人列伝』展望社、2018年。ISBN 4885463513