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秦大津父

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

秦 大津父(はた の おおつち)は、日本古代の、6世紀前半ごろの豪族秦氏の人物。はなし。

経歴

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山背国(やましろのくに)紀郡(きのこおり)深草里(ふかくさのさと)の人。現在の京都市伏見区にあたる。

日本書紀』巻第十九は、欽明天皇の即位にまつわる、以下のような物語を最初に載せている。

天皇が幼少の頃、以下のような夢をみた。 「秦大津父という者を寵愛すれば、壮年になって必ず天下をしらすことができるでしょう」

目を覚ました天皇は、使いを遣わして広く探させたところ、その人物を見つけることができた。天皇は珍しい夢であったと喜び、大津父に、「何か思い当たることはないか」と尋ねたところ、

「私が伊勢に商価(あきない)をして還る時、山(稲荷山)南方の狼谷(大亀谷)辺りにさしかかったところ、2匹の狼が闘って血まみれになっているのを見かけました。馬から下りて、手を洗い、口をすすいで、『貴い神であるあなたがたが争っていたら、猟士(かりうど)にたちまち捕らわれてしまうでしょう』と言って、争いを止めて、血にぬれた毛を拭い洗って、逃がしてやりました」

と言った。天皇は「この報いだろう」と感心し、彼を近侍させ、優遇した。大津父は富を重ね、天皇が即位した後には大蔵の司に任じられた[1]

欽明天皇元年8月(540年)には、漢人・秦人ら、日本に帰化した人々を戸籍に登録したとあり、秦人7,053戸を管掌する伴造に「大蔵掾」を任命したと記されている[2]。この「大蔵掾」は大津父のことであろうと想像される。

考証

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この説話は、秦氏と商業活動との関連性を示している。すなわち、調の貢納にあたる秦氏集団が、族長である大津父の下に組織化され、朝廷の蔵の経営に参与するようになった歴史的事実を示しているものと推定される。

また、秦氏の拠点は、紀伊郡深草の地のほかに、葛野郡太秦の地が有名であり、6世紀中葉から7世紀初頭頃に、秦氏の族長が深草から太秦に移住したか、あるいは深草から太秦の一族に族長権が移動したことが考えられる。あるいは、深草の秦氏は直系ではなく、傍系であった可能性もある。「深草」の名前は、「伊奈利社[3]や、『書紀』巻第二十四の山背大兄王の変の際の「深草屯倉[4]などに現れている。

脚注

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  1. ^ 『日本書紀』欽明天皇 即位前紀「天皇幼時夢。有人云。天皇寵愛秦大津父者。及壮大。必有天下。寤驚、遣使普求。得自山背国紀伊郡深草里。姓字果如所夢。於是忻喜遍身。歎夫曾夢。乃告之曰。汝有何事。答云。無也。但臣向伊勢。商価来還。山逢二狼相闘汚血。乃下馬洗漱口手。祈請曰。汝是貴神。而楽麁行。儻逢猟士。見禽尤速。乃抑止相闘。拭洗血毛。遂遣放之。倶令全命。天皇曰。必此報也。乃令近侍。優寵日新。大致饒富。及至践祚。拝大蔵省。」
  2. ^ 『日本書紀』欽明天皇元年8月条「八月。高麗。百済。新羅。任那。並遣使献。並修貢職。召集秦人。漢人等諸蕃投化者。安置国郡。編貫戸籍。秦人戸数惣七千五十三戸。以大蔵掾為秦伴造。」
  3. ^ 『山城国風土記』逸文 伊奈利の社
  4. ^ 『日本書紀』皇極天皇2年11月1日条

参考文献

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関連項目

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