秩石
概要
[編集]官秩 | 月(斛) | 12か月(斛) |
---|---|---|
(万石) | 350 | 4200 |
中二千石 | 180 | 2160 |
二千石 | 120 | 1440 |
比二千石 | 100 | 1200 |
千石 | 80 | 960 |
六百石 | 70 | 840 |
比六百石 | 50 | 600 |
四百石 | 45 | 540 |
比四百石 | 40 | 480 |
三百石 | 40 | 480 |
比三百石 | 37 | 444 |
二百石 | 30 | 360 |
比二百石 | 27 | 324 |
百石 | 16 | 192 |
斗食 | 11 | 132 |
佐史 | 8 | 96 |
秦代や漢代の官僚の地位の上下は、年俸の額によって決められ、支給される穀物の量を基準とした。ある官職の年俸の額面を官秩といい、単位は石で表された。制度全体としては秩石制や秩石序列という。
官職の地位を石で表すのは『商君書』や『墨子』に記述があるので[1][2][3]、この制度の起源は少なくとも戦国時代の秦まで遡り、秦朝を経て漢へと受け継がれた。その後、九品官人法の制定により三国時代に廃止された。
『漢書』の「百官公卿表」や『続漢書』の「百官志」には官職のリストとともに官秩も記載されている。例えば、「百官公卿表」によると、「万石」と称された別格の三公・大将軍を除いて、上は九卿の「中二千石」から、下は100石以下の下級官僚である「百石」・「斗食」・「佐史」まであり、19段階に分かれていたことになる。
ただし、「百官公卿表」にある2,000石のバリエーションは「中二千石」・「二千石」・「比二千石」の3つであるが、時代によっては、「中二千石」・「真二千石」・「二千石」・「比二千石」の4つに分かれていたのでもう1段階あり、逆に800石と500石は600石と400石へそれぞれ統合されたことから、「八百石」・「比八百石」・「五百石」・「比五百石」の4段階は前漢の途中で廃止されている[1]など、段階の数は細かく変わっている。また、『二年律令』の「秩律」には250石、160石、120石の記述があり[4][1]、前漢の初期、おそらく呂后2年以前はこういった10の位まで定めた段階があった。
百官受奉例
[編集]『続漢書』の「百官志」には最後に「百官受奉例」として、後漢でそれぞれの官秩の月ごとの俸給が(「比千石」を除いて)記載されている[5]。1斛を1石として年で換算すると、表で示したように数字がずれているが、他にも様々な疑問点があって、古くから議論されてきた。「半銭半谷」とあり、貨幣と穀物に分けて支給されていたが、この比率を7:3とする説がある[6][7]。
関連項目
[編集]- 二千石 - 地方長官を指す語に転じた
出典
[編集]- ^ a b c 大川俊隆, 門田明, 村元健一, 吉村昌之, 米田健志「『漢書』百官公卿表訳注稿(一)」『大阪産業大学論集. 人文・社会科学編』、大阪産業大学、2011年6月、NAID 110008747079、2021年1月30日閲覧。
- ^ (中国語) 『商君書』「境内」, ウィキソースより閲覧, "千石之令、短兵百人。八百之令、短兵八十人。七百之令、短兵七十人。六百之令、短兵六十人。"
- ^ (中国語) 『墨子』「号令」, ウィキソースより閲覧, "不欲受賜而欲為吏者、許之二百石之吏。守珮授之印、其不欲為吏而欲受構賞祿、皆如前、有能入深至主國者、問之審信、賞之倍他候。其不欲受賞而欲為吏者、許之三百石之吏。"
- ^ 佐藤達郎 「二年律令に見える漢初の秩石制について」『江陵張家山二四七號墓出土漢律令の研究』富谷至編、2006
- ^ (中国語) 『後漢書』「百官志 五」, ウィキソースより閲覧, "百官受奉例。大將軍、三公奉、月三百五十斛。中二千石奉、月百八十斛。二千石奉、月百二十斛。比二千石奉、月百斛。千石奉、月八十斛。六百石奉、月七十斛。比六百石奉、月五十斛。四百石奉、月四十五斛。比四百石奉、月四十斛。三百石奉、月四十斛。比三百石奉、月三十七斛。二百石奉、月三十斛。比二百石奉、月二十七斛。一百石奉、月十六斛。斗食奉、月十一斛。佐史奉、月八斛。凡諸受奉、皆半錢半谷。"
- ^ 宇都宮清吉、藪内清「續漢志百官受奉例考」『東洋史研究』、東洋史研究会、1940年6月30日、doi:10.14989/145696、2021年1月30日閲覧。
- ^ 宇都宮清吉「續漢志百官受奉例考再論」『東洋史研究』、東洋史研究会、1951年10月20日、doi:10.14989/138928、2021年1月30日閲覧。