種子島久尚
表示
時代 | 江戸時代末期 |
---|---|
生誕 | 嘉永7年1月9日(1854年2月6日)[1] |
死没 | 明治15年(1882年)7月13日 |
改名 | 鶴袈裟(幼名)→以時→久尚[1] |
別名 | 通称:弾正 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 島津斉彬→島津忠義 |
藩 | 薩摩藩 |
氏族 | 種子島氏 |
父母 | 父:種子島久珍、母:初子(島津久照の娘) |
兄弟 | 英(フサ)、初(ハツ)、雄(タケ)、久尚[1] |
妻 | 正室:幸子(島津貴典の娘) |
子 | 時丸、守時 |
種子島 久尚(たねがしま ひさなお)は、江戸時代末期から明治時代初期にかけての薩摩藩家臣、種子島氏第25代当主。父は種子島久珍。母は島津久照の娘。正室は島津貴典の娘幸子。
略歴
[編集]嘉永7年(1854年)1月9日種子島久珍の子として生まれる。生後6日前に父久珍が急逝しており[2]、家督は継いだがまだ乳児のため、養祖母松寿院が政務を代行した。万延元年(1860年)、種子島氏当主夫妻の最初の墓所である慈遠寺御坊墓地(西之表市西町)を現在の形に整備。慶応元年(1865年)祖母松寿院が死去。明治元年(1868年)政府に戦費として800両を献金する。明治2年(1869年)版籍奉還により種子島を政府に返還し鹿児島に移住。同年政府より世禄1500石を賜る。明治8年(1875年)長男時丸誕生。明治12年(1879年)次男守時誕生。明治15年(1882年)死去。享年29。
家督は嫡男時丸が相続するも明治18年(1885年)11歳で夭折。次男守時がその跡を継ぎ、明治33年(1900年)男爵に叙され華族となる。
脚注
[編集]- ^ a b c 鮫島宗美 訳『種子島家譜 第5巻』1962年、1054-1055頁。doi:10.11501/3026354 。
- ^ 鮫島宗美 訳『種子島家譜 第5巻』1962年、1046-1047頁。doi:10.11501/3026354 。