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種子島久尚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
種子島 久尚
時代 江戸時代末期
生誕 嘉永7年1月9日(1854年2月6日)[1]
死没 明治15年(1882年)7月13日
改名 鶴袈裟(幼名)→以時→久尚[1]
別名 通称:弾正
幕府 江戸幕府
主君 島津斉彬島津忠義
薩摩藩
氏族 種子島氏
父母 父:種子島久珍、母:初子(島津久照の娘)
兄弟 英(フサ)、初(ハツ)、雄(タケ)、久尚[1]
正室:幸子島津貴典の娘)
時丸守時
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種子島 久尚(たねがしま ひさなお)は、江戸時代末期から明治時代初期にかけての薩摩藩家臣、種子島氏第25代当主。父は種子島久珍。母は島津久照の娘。正室は島津貴典の娘幸子。

略歴

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嘉永7年(1854年)1月9日種子島久珍の子として生まれる。生後6日前に父久珍が急逝しており[2]、家督は継いだがまだ乳児のため、養祖母松寿院が政務を代行した。万延元年(1860年)、種子島氏当主夫妻の最初の墓所である慈遠寺御坊墓地(西之表市西町)を現在の形に整備。慶応元年(1865年)祖母松寿院が死去。明治元年(1868年)政府に戦費として800両を献金する。明治2年(1869年版籍奉還により種子島を政府に返還し鹿児島に移住。同年政府より世禄1500石を賜る。明治8年(1875年)長男時丸誕生。明治12年(1879年)次男守時誕生。明治15年(1882年)死去。享年29。

家督は嫡男時丸が相続するも明治18年(1885年)11歳で夭折。次男守時がその跡を継ぎ、明治33年(1900年男爵に叙され華族となる。

脚注

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  1. ^ a b c 鮫島宗美 訳『種子島家譜 第5巻』1962年、1054-1055頁。doi:10.11501/3026354https://dl.ndl.go.jp/pid/3026354/1/109 
  2. ^ 鮫島宗美 訳『種子島家譜 第5巻』1962年、1046-1047頁。doi:10.11501/3026354https://dl.ndl.go.jp/pid/3026354/1/105