種市城
表示
種市城(平城・山城) (岩手県) | |
---|---|
城郭構造 | 居館・山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 種市氏 |
築城年 | 不明 |
主な城主 | 種市中務 |
廃城年 | 1592年(天正20年) |
遺構 | 曲輪、堀 |
指定文化財 | 史跡等未指定[1] |
位置 |
北緯40度23分39.5秒 東経141度38分12.5秒 / 北緯40.394306度 東経141.636806度座標: 北緯40度23分39.5秒 東経141度38分12.5秒 / 北緯40.394306度 東経141.636806度 ※座標は平城の地点 |
地図 |
種市城(たねいちじょう)は、岩手県九戸郡洋野町(旧・種市町)にあった日本の城。戦国時代の種市氏の居城。同町字城内(じょうない)のほぼ中心部に位置し、平時の居館とみられる平城(へいじょう)と[2]、そこから約1キロメートル南西にあり戦時に使用したとみられる山城(やましろ)の2城が存在した[3][4]。
概要
[編集]平城
[編集]城内地区は当時の種市の中心集落で、川尻川に北面した高台にあり、旧字名は「館」。平城跡はそのまま集落となっている。館の東側から集落内に通じる坂道は、館坂と呼ばれ八戸へ通じる街道の起点であった。現在は堀跡が道路となっているがほとんど市街地化し、地表上の遺構は残っていない[5]。
山城
[編集]山城跡は、館から南西1キロメートル、比高50メートルの丘陵上に位置し、平場(曲輪)と空堀が残る[6]。
歴史
[編集]種市氏は一戸南部氏の分流とも、工藤氏の末裔ともいわれ、九戸政実の乱に際し、種市伝左衛門が九戸籠城に加わったが、当主の種市中務(なかつかさ、諱は不明[7])は南部氏側に属し、城攻めに参陣していた。
天正20年(1592年)の『諸城破却書上』には「糠部郡之内 種市 山城破 久慈孫三郎持分」とあり、廃城となった。
脚注
[編集]- ^ 「洋野ヒストリアデジタルアーカイブ」洋野町公式HP
- ^ 「平城があった現在の城内地区」洋野ヒストリアデジタルアーカイブ・洋野町公式HP
- ^ 「種市城(山城)跡入り口」洋野ヒストリアデジタルアーカイブ・洋野町公式HP
- ^ 洋野町教育委員会 2021 pp.5-6
- ^ 岩手県教育委員会 1986 p.75
- ^ 洋野町教育委員会 2021 pp.9-10
- ^ 洋野町教育委員会 2021 p.5
参考文献
[編集]- 児玉幸多、坪井清足『日本城郭大系 第2巻 青森・岩手・秋田』新人物往来社、1980年7月15日。
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 3 岩手県』角川書店、1985年3月8日。ISBN 4-04-001030-2。
- 岩手県教育委員会『岩手県中世城館跡分布調査報告書』 82巻、1986年3月30日 。
- (有)平凡社地方資料センター『日本歴史地名大系 第3巻 岩手県の地名』平凡社、1990年7月13日。ISBN 4-582-91022-X。
- 千田, 政博、田中, 寿明『洋野町内試掘調査報告書』 10巻、洋野町教育委員会〈洋野町埋蔵文化財調査報告書〉、2021年3月5日 。