種里城
表示
種里城 (青森県) | |
---|---|
城郭構造 | 山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 大浦氏 |
築城年 | 1491年(延徳3年) |
主な城主 | 大浦光信 |
遺構 | 曲輪 |
指定文化財 | 国の史跡(「津軽氏城跡」の一部として) |
再建造物 | なし |
位置 | 北緯40度42分16秒 東経140度9分58秒 / 北緯40.70444度 東経140.16611度座標: 北緯40度42分16秒 東経140度9分58秒 / 北緯40.70444度 東経140.16611度 |
地図 |
種里城(たねさとじょう)は、青森県西津軽郡鯵ヶ沢町種里町にあった日本の城(山城)。国の史跡に指定されている(史跡「津軽氏城跡」のうち)[1][2]。
概要
[編集]種里城は、津軽氏発祥の地として知られている[3]。城は、赤石川の上流、種里集落の西南約500メートルに位置し、前面は赤石川、背後は大柳沢山嶺をひかえた、東向きの山城である。本丸跡の西南に光信公御霊墓があり、御廟館とも言われている。また、近くに殉死した奈良主水貞親の墓がある[4]。
2002年(平成14年)に弘前城跡や堀越城跡とともに「津軽氏城跡」として国史跡に指定された[5]。また周辺は津軽白神県立自然公園に飛地で指定されている[6]。
歴史
[編集]1491年(延徳3年)、大浦光信によって築城された。1502年(文亀2年)、光信は大浦城を築き、子の大浦盛信を置いた。光信死後は大浦城が大浦氏の本拠となり、種里城は支城として江戸時代初めまで使われた[2]。その後種里城は津軽氏の聖地として保存されたが、明治時代に入って遺構は破壊された[7]。
1988年、跡地に資料館「光信公の館」が建設されることに伴い発掘調査が行われ、その後種里城跡の解明を目的とした学術調査が、1991年から1997年まで続けられた[8]。
画像
[編集]-
本丸跡
-
主殿跡
-
大浦光信像
-
「種里城址」碑
-
資料館「光信公の館」
出典
[編集]- ^ 「津軽氏城跡」『弘前市公式サイト』、弘前市 。2018年11月11日閲覧。
- ^ a b 「種里城跡とは」『津軽藩発祥の地 国史跡 種里城跡』、鰺ヶ沢町・鰺ヶ沢町教育委員会 。2017年2月8日閲覧。
- ^ 「鰺ヶ沢[町]」『世界大百科事典』、日立ソリューションズ・クリエイト 。2017年2月8日閲覧。
- ^ 「周辺の史跡」『津軽藩発祥の地 国史跡 種里城跡』、鰺ヶ沢町・鰺ヶ沢町教育委員会 。2017年2月8日閲覧。
- ^ “城跡”. 青森県. 2024年12月1日閲覧。
- ^ “津軽白神県立自然公園”. 青森県. 2024年12月1日閲覧。
- ^ 「たねさとじょう【種里城】」『日本の城がわかる事典』、講談社 。2017年2月8日閲覧。
- ^ 「発掘調査」『津軽藩発祥の地 国史跡 種里城跡』、鰺ヶ沢町・鰺ヶ沢町教育委員会 。2017年2月8日閲覧。
関連文献
[編集]- 中田書矢「種里城 (特集 城郭の研究)」『月刊考古学ジャーナル』第493号、ニュー・サイエンス社、15-18頁、2002年10月。ISSN 04541634。 NAID 40005425978。
- 佐々木浩一「青森県中・近世遺跡の景観―小沢館・境関館・浜通遺跡・十三湊遺跡・種里城」『青森県史研究』第5号、青森県、2000年11月。ISSN 13427431。 NAID 40005164794。