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稲生正倫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

稲生 正倫(いのう まさとも、? - 寛文6年2月17日1666年3月22日))は、江戸幕府旗本。通称・七郎右衛門。父は稲生正信。妻は河村善右衛門重勝の娘[1]

略歴

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稲生正倫の墓(長崎市光源寺)

寛永10年(1633年)6月15日、初めて徳川家光に拝謁する[1]

同18年(1641年)4月16日、小姓組に属する[1]

正保2年(1646年)12月19日、家督を継ぐ[1]

寛文3年(1663年)11月25日、目付に就任。同年12月26日、家禄に300俵を加えられ、同28日に布衣の着用を許される[1]

同5年(1665年)3月13日、長崎奉行になる。同年7月に長崎着。奉行所の与力5騎を10騎に、同心20人を30人に増員[1][2]

同6年(1666年)2月17日、在任中に赴任先の長崎において死去。享年41。同地の光源寺に葬られる[1][2][3]

死にまつわる謎

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稲生は、前任の長崎奉行・黒川正直の後任として寛文5年から同6年まで長崎奉行を務めた[2][4]

寛文6年2月17日に稲生は死亡。長崎在任中での稲生の逝去によって同地は奉行不在となった。それに対し江戸幕府は、天草藩藩主・戸田忠昌を長崎へ派遣して監視させ、諸国を巡察中だった使番の「下曾根三十郎」を久留米から長崎へ向かわせた[注釈 1]。このように、長崎近くにいる大名や諸国巡察中の者が急行して長崎を監視するような事例はそれ以前には無く、これ以降も行われなかった[注釈 2][2][5]

徳川実紀』には、同年二月二十六日の条に

長崎奉行稲生七郎右衛門正倫大病により、其子書院番次郎八正盛幷に弟小十人組五郎左衛門正照看侍の暇下さる

とあり、正倫の子で書院番の正盛[注釈 3]と弟で小十人組の正照に、看病のためとして暇を与えている[5]

『長崎実録大成 正編』[注釈 4]では、

一 寛文六年(一六六六)二月十七日御奉行稲生氏於長崎卒去。法号孝山浄忠大居士。当寺ニテ荼毘アリ。

とあるように、ほとんどの長崎地誌類では稲生は「光源寺に埋葬された」と書かれている。しかし、『寛保日記』によれば下記のようになっている。

一 稲生七郎右衛門様、右午ノ二月十七日暮六ツ時分ニ、長崎ニ而御年四拾弐ニ而御死去被成候、御死骸ハ同十八日夜八ツ時分ニ、諫早通リ江戸江参候、御供ニ御家老深見九郎左衛門殿細田九太夫殿小姓衆歩行之衆道具之者人数合百廿人余馬弐疋参候
附リ、御政所江御詰衆七郎右衛門様与力同心衆人数六拾六人余御詰被成、長崎中昼夜共ニ御廻リ被成候事

稲生が死んだのは17日午後6時前後で、翌日の午前2時前後には、家老2人と家臣120人の随行とともに亡骸は諫早を通って江戸へ向かって運び出されたとある。さらに長崎では稲生配下の詰衆や与力・同心66人が残って昼夜巡視したとも書かれている[2][5]

これに対し、歴史学者の鈴木康子は、これは幕府が遺体検分する必要性のある事例で、しかも長崎で稲生を葬ることに対しての強い拒否反応があったためと考えている。そして、これは長崎地下人により何らかの手段で暗殺されたためで、この後長崎に赴任した河野通定が屋敷に長崎の町人を入れなかったこと、長崎出身でない医師を側近としたことなども、それを示唆しているとする[2][5]

しかし、これらの疑惑を裏付ける古文書類は、度重なる長崎市内の大火でほとんどが焼失してしまい、証拠となるものは残されていない[2]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『寛保日記』寛文六年二月二十七日の項。
  2. ^ 下曾根は同年4月から戸田と交代し、もう1人の長崎奉行松平隆見が長崎へ到着する6月までの間、長崎奉行代行を務めた。
  3. ^ 寛文6年7月11日に家督を継いでいる。
  4. ^ 「光源寺」『長崎実録大成 正編』第六巻「寺院開創之部」下(長崎文献叢書第一集第二巻、152頁)。

出典

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  1. ^ a b c d e f g 『新訂 寛政重修諸家譜』第十六 株式会社続群書類従完成会、390頁。
  2. ^ a b c d e f g 「隠された稲生奉行の死」本田貞勝『長崎奉行物語 サムライ官僚群像を捜す旅』 雄山閣、43-47頁、48頁。
  3. ^ 「光源寺」『長崎県大百科事典』長崎新聞社、300頁。「光源寺」『角川日本地名大辞典 42 長崎県』角川書店、380頁。「光源寺」『長崎県の地名 日本歴史地名大系43』平凡社、191頁。
  4. ^ 木村直樹『長崎奉行の歴史』 角川選書、36-37頁。
  5. ^ a b c d 鈴木康子「着任前の長崎の混乱」『長崎奉行』 筑摩書房、42-47頁。

参考文献

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