コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

穂積歌子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
穂積 歌子
(ほづみ うたこ)
誕生 渋沢宇多子
文久3年8月24日1863年10月6日
死没 昭和7年(1932年1月31日
墓地 谷中霊園
職業 歌人
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
ジャンル 短歌
代表作 『ははその落葉』『三日の大和路』
配偶者 穂積陳重
子供 4男3女
穂積重遠(長男)
穂積律之助(次男)
渋沢孝子(長女、渋沢元治[注釈 1]妻)
石黒光子(次女、石黒忠篤妻)
穂積真六郎(四男)
市河晴子(三女、市河三喜妻)
親族 渋沢栄一(父)
尾高惇忠(伯父)
渋沢平九郎(叔父、義兄)
渋沢篤二(同母弟)
渋沢敬三渋沢信雄渋沢智雄(甥、弟・篤二の息子)
阪谷芳郎(同母妹・琴子の夫)
大川平三郎(従兄、異母妹の夫)
尾高次郎(従弟、異母妹の夫)
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示

穂積 歌子(ほづみ うたこ、文久3年8月24日1863年10月6日) - 昭和7年(1932年1月31日)は、日本歌人。夫は法学者の男爵穂積陳重。父は「日本経済の父」子爵渋沢栄一

概略

[編集]

武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)の豪農渋沢市郎右衛門の嫡男だった[注釈 2]栄一と最初の妻・千代の長女として生まれる。明治15年(1882年)、旧宇和島藩伊達家家令を務めていた西園寺公成のとりなしで、同藩士族穂積陳重に嫁ぎ[2]、長男・穂積重遠(結婚翌年に誕生)を始めとする4男3女を産み育て(1人夭折)「良妻賢母の鑑」といわれた[3]。婦人会活動も盛んで、大日本赤十字社愛国婦人会の会員だったほか、慈恵委員慈恵会では幹事、出征軍人家族慰問婦人会では理事を務めた[4]。1926年、夫の穂積陳重(享年72)と死別する。

昭和7年(1932年)1月31日、肺炎を患い死去。享年70(満68歳没)。父の栄一の死から僅か2カ月後の事であった。また、同年の10月には同母弟の渋沢篤二も死去する。歌人として知られ、著作に『穂積歌子日記』『ははその落葉』『三日の大和路』がある。

刊行

[編集]
  • 『穂積歌子日記 明治一法学者の周辺』みすず書房、1989年
穂積重行 編・注解。1890年から1906年の日記

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 栄一に代わって渋沢市郎右衛門の跡を継いだ婿養子の渋沢市郎と栄一の妹貞子の跡取り息子で、歌子の従弟にあたる[1]
  2. ^ 栄一は市郎右衛門の家(渋沢家本家「中の家」)を継がずに別家を立てた[1]

出典

[編集]

参考文献

[編集]
  • 上田正昭; 西澤潤一; 平山郁夫 ほか 編「穂積歌子」『日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 9784062108003 
  • 日外アソシエーツ株式会社 編「穂積歌子」『20世紀日本人名事典』 2巻《そ-わ》、日外アソシエーツ株式会社、2004年。ISBN 4816918531 
  • 渋沢青淵記念財団竜門社『渋沢栄一伝記資料』 26巻、渋沢青淵記念財団竜門社、1960年。 
  • 塩崎文雄「銃後の日露戦争 : 『穂積歌子日記』を読む (研究プロジェクト 近代日本の戦争と軍隊)」『東西南北』第2007巻、和光大学総合文化研究所、134-143頁、2007年3月。CRID 1050282813290488576NAID 120005381356https://wako.repo.nii.ac.jp/records/2463 
1879年、16歳時の歌子(右)と妹の琴子