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窪之庄城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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窪之庄城
奈良県
城郭構造 平城
築城主 窪城氏
築城年 不明
主な城主 窪城氏
廃城年 不明
遺構 堀切、土塁
指定文化財 未指定
再建造物 なし
位置 北緯34度38分21.5秒 東経135度50分07.1秒 / 北緯34.639306度 東経135.835306度 / 34.639306; 135.835306
地図
窪之庄城の位置(奈良県内)
窪之庄城
窪之庄城
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窪之庄城(くぼのしょうじょう)は、奈良県奈良市にあった中世日本の城平城)。

概要

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大和国添上郡窪荘(窪庄、現在の奈良市窪之庄町)に所在した[1]。平地にある居館を背後の丘陵へと拡張し、環濠集落を外郭とする[2]

東大寺荘官だった興福寺衆徒窪城氏が居城とした[3]。窪之庄城は東西2つの方形郭からなり[4]、東郭を窪城氏の本家が、西郭を窪城西家が使用したとみられる[5]応仁の乱以後の窪城氏は古市氏と結ぶ本家と筒井氏と結ぶ西家に分かれ[5]永正3年(1506年)、筒井氏に攻められ「窪庄本城」が落城した[6][2]

添下郡鷹山荘(奈良県生駒市)の衆徒・鷹山氏の系図によると、この後、鷹山頼慶の弟・頼円が窪之庄城主となり、その跡を継いだ子の藤宗以降、窪庄氏を名乗ったという[7]

永禄11年(1568年)10月、筒井順慶方となっていた窪之庄城は松永久秀に攻められ落城するが[8][9]、後に再び筒井方の城となり、元亀2年(1571年)5月に松永勢を撃退している[10][2]天正4年(1576年)5月には大坂本願寺攻めにて松永久通や大和国人らが討死したとの噂が一時流れたが[11]、その中に「窪庄」の名もある[12]。城主を務めた窪庄宗重(藤宗の子)はこの後大坂の陣豊臣方として戦い、慶長20年(1615年)5月に戦死した[7]

脚注

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  1. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1990, pp. 416–417.
  2. ^ a b c 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1990, p. 417.
  3. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1990, pp. 416–417; 村田 1994, pp. 529–530.
  4. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1990, p. 417; 村田 1994, p. 529.
  5. ^ a b 村田 1994, p. 530.
  6. ^ 多聞院日記』永正3年7月17日条(辻善之助編『多聞院日記 第一巻』三教書院、1935年、187頁)。
  7. ^ a b 「鷹山氏系図写」(生駒市教育委員会編『興福院所蔵 鷹山家文書調査報告書』生駒市教育委員会〈生駒市文化財調査報告書 第38集〉、2020年、74頁)。
  8. ^ 『多聞院日記』永禄11年10月5日・10日条 (辻 1935, pp. 91–92)。
  9. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1990, p. 417; 天野 2018, p. 227.
  10. ^ 『多聞院日記』元亀2年5月9日・11日条 (辻 1935, pp. 237–238)。
  11. ^ 天野 2018, p. 261.
  12. ^ 『多聞院日記』天正10年5月3日条 (辻 1935, p. 409)。

参考文献

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  • 天野忠幸『松永久秀と下剋上 室町の身分秩序を覆す』平凡社〈中世から近世へ〉、2018年。ISBN 978-4-582-47739-9 
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 29 奈良県』角川書店、1990年。ISBN 4-04-001290-9 「窪之庄」「窪之庄城」の項。
  • 辻善之助 編『多聞院日記 第二巻』三教書院、1935年。全国書誌番号:46063075https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207457/51 
  • 村田修三 著「中世の城館」、奈良市史編集審議会 編『奈良市史 通史二』奈良市、1994年。全国書誌番号:94035921 

関連項目

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