立花鑑一
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立花鑑一像(福厳寺蔵) | |
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 宝暦12年(1762年) |
死没 | 寛政5年8月9日(1793年9月13日) |
改名 | 千之進(幼名)、茂喬、通弘、鑑一 |
別名 | 美作、美濃(通称) |
戒名 | 仁峰宗譲懿孝院 |
官位 | 従五位下山城守、従四位下 |
藩 | 筑後柳河藩世嗣 |
氏族 | 立花氏 |
父母 |
立花鑑通 立花茂雅 |
兄弟 |
鑑門、通玄、通厚、鑑一、鑑寿、 立花茂親室、松、酉、立花通寛室、 立花政峰室、矢島某室、小野隆儀室 |
妻 | 立花茂雅養女 |
子 | 鑑賢 |
立花 鑑一(たちばな あきかず)は、江戸時代中期の筑後国柳河藩の世嗣。通称は美作、美濃。官位は従四位下・山城守。
経歴
[編集]宝暦12年(1762年)、7代藩主・立花鑑通の四男として柳河御花畠にて出生。実母は寛政重修諸家譜では後藤氏とあるが、実は商家中村氏の娘。幼名は千之進。諱は茂喬、のちに通弘、鑑一。
柳川藩家臣で立花帯刀家分家で父の従兄弟にあたる立花茂雅(伊豆)の養子となり、茂雅の養女(立花茂久の娘)を室とする。
長兄で柳河藩嫡子だった鑑門が寛政元年8月11日(1789年9月29日)に早世し、加えて当初白羽の矢が立った三兄・通厚が嗣子の座を放棄して、鑑一を推薦した[1]ので藩主家に戻されて同年11月に嫡子に指名され、鑑一と改名。同年徳川家斉に拝謁し、翌年従五位下山城守に叙任。
寛政3年(1791年)には従四位下に任じられるが、家督を継ぐことなく寛政5年8月9日(1793年9月13日)に32歳で早世した。代わって、弟・鑑寿が嫡子となった。長男・鑑賢は後に柳河藩主となる。