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竹成五百羅漢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

竹成五百羅漢(たけなりごひゃくらかん)は、三重県三重郡菰野町にある大日堂の境内に多くの石仏があり、地元ではその石仏を竹成の五百羅漢と呼んでいる。昭和42年(1967年)2月10日に三重県指定の史跡になっている[1]

竹成五百羅漢

概要

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嘉永5年(1852年)2月、竹成出身の照空(神瑞)が、大日堂の境内に15年の歳月を費やして完成させたと伝えているが[2]、実際のところは、照空より依頼をうけた桑名の石工、石長こと藤原長兵衛一門により、慶応2年(1866年)に完成している[3]。その後石仏は明治9年(1876年)の地租改正時に起こった伊勢暴動によって大日堂が焼かれた。明治時代廃仏毀釈の影響で、石仏が破壊されたり、仏教美術品が持ち去られるような仏教弾圧の時期があった[3]

石像群は小高く盛られた土山に、東側を正面にして、釈迦三尊を主尊とする羅漢像、大日如来を中心とする密教系の明王天部などの石像で構成されており、正面入り口より、地蔵菩薩三蔵法師弥勒菩薩、南側に願主照空、閻魔大王、北側には天照大神天狗七福神、釈迦苦行像、三猿などの石仏が並んでおり、石仏の裏側には尊者名と番号が記された石仏と、記されていない石仏とがある[4]釈迦如来地蔵菩薩三蔵法師弘法大師空海の仏教系の石像があれば、天照大神猿田彦命などの神道系の石像もあり神仏が入り乱れている。 [5]

照空(上瑞)

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照空上人(上瑞和尚)は天明8年(1788年)5月竹成で生まれており、文化9年(1812年出家野登寺にて修行する。天保12年(1841年)竹成へ帰村後、安政2年(1855年)4月11日68歳で入滅 [3]

照空は野登寺での修行時代に、野登山周辺に不動明王や行者の石像を建立するなど、多くの事業を行っている。事業の資金として、領主である亀山城主に度々無心にいっており、照空を庇護していた城主であったが、反感を買ってしまい失脚させられることとなり、晩年を竹成で過ごすこととなる。この後五百羅漢の石仏を作ることとなるが、完成を見る前に死を迎えている。[2]

大日堂

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大日堂は大平山松樹院と称し、この松樹院は願行寺の門前にあったお堂を、照空が現在地に移し、敷地内に五百羅漢を建立している[6]大正6年(1917年)鈴木又市により田口新田の真願寺より、旧本堂を移築している[7]。本尊として二体の大日如来座像が安置されており、共に三重県指定の有形文化財(彫刻)に指定されている[8]

所在地

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  • 三重県三重郡菰野町竹成2070

周辺

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アクセス

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脚注

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  1. ^ みんなで、守ろう!活かそう!三重の文化財・大日堂境内の五百羅漢 (2010年4月11日閲覧。)
  2. ^ a b 『鈴鹿の山と谷3』85 - 87頁。
  3. ^ a b c 菰野町観光協会 三重こもの町 歴史・文化・伝説 五百羅漢(2010年4月11日閲覧。)
  4. ^ 『菰野町史(上巻)』559 - 561頁。
  5. ^ 『三重地理地名地図の謎』岡田登96頁
  6. ^ 『菰野町史(下巻)』394・395頁。
  7. ^ 『久留倍官衙遺跡と朝明郡』53頁。
  8. ^ 菰野町観光協会 三重こもの町 歴史・文化・伝説 大日如来坐像2体(2010年4月11日閲覧。)

参考文献

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  • 西尾寿一『鈴鹿の山と谷3』ナカニシヤ出版、1989年、85 - 87頁。
  • 菰野町教育委員会『菰野町史(上巻)』1987年、559 - 561頁。
  • 菰野町教育委員会『菰野町史(下巻)』1997年、394・395頁。
  • 久留倍官衙遺跡を考える会『久留倍官衙遺跡と朝明郡』2008年、54頁。

外部リンク

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