竹田定夫
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竹田 定夫(たけだ さだお、1787年(天明7年)- 1840年(天保11年6月7日))は江戸時代の儒学者、教育者。福岡藩の藩儒竹田家の第6代当主。藩校修猷館(東学問稽古所)第3代総受持(館長、「教授」とも称される)[1]。号は梧亭。字(あざな)は子毅。通称は助太夫、茂兵衛[2]。
経歴
[編集]福岡藩の藩校である修猷館の、初代総受持を務めた竹田定良(梅廬)の次男として生まれる[2]。
1807年(文化4年)、兄竹田定矩の後任の修猷館総受持となり、黒田家の家譜編纂にも携わった[2]。総受持として、学問を好んだ藩主黒田斉清のもとで、学制の改革を推し進め、1840年(天保11年)に没するまでその職にあった[3]。