竺雲等連
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竺雲等連(じくうんとうれん、永徳3年/弘和3年(1383年) - 文明3年1月7日(1471年1月27日))は、室町時代中期の臨済宗の仏教僧。俗姓は井伊氏。諱は等連。字は竺雲。号は自彊、小朶子、重艮叟。遠江国の出身。
京都天龍寺の大岳周崇に師事して修学し、その法を継いだ。応永年間(1394年 - 1427年)に中国の明に渡った。帰国した後、京都相国寺を経て、1444年(文安元年)南禅寺の住持となり、1455年(康正元年)には相国寺の鹿苑院に住して僧録司に任じられた。その後は嵯峨の天龍寺性智院に隠退している。
漢書の訓点に秀で、特に易学の研究に優れ、その後の五山における史書研究の基礎を築いた。
瑞渓周鳳の日記『臥雲日件録抜尤』によると、享徳4年(1455年)正月6日に来訪した竺雲等連は当時の政局に話が及び、権勢を振るっていた御今(今参局)、有馬(有馬元家か)、烏丸(烏丸資任)を世間では「三魔」と呼び、落書が貼られていると語った[1]。