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第一吉田丸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
第一吉田丸
基本情報
船種 貨物船
クラス 浅野造船所B型標準貨物船
船籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
所有者 山下汽船
運用者 山下汽船
 大日本帝国陸軍
建造所 浅野造船所
母港 横浜港/神奈川県
姉妹船 浅野造船所B型標準貨物船24隻
信号符字 NTDS→JIHD
IMO番号 22318(※船舶番号)
建造期間 542日
就航期間 9,219日
経歴
起工 1917年8月7日
進水 1918年12月18日[1]
竣工 1919年1月30日[2]
最後 1944年4月26日被雷沈没
要目
総トン数 5,425トン[1]
純トン数 3,385トン[1]
載貨重量 8,909トン[1]
排水量 11,560トン[1]
登録長 121,92m[1]
型幅 16.15m[1]
登録深さ 7.75m[1]
高さ 24.99m(水面からマスト最上端まで)
8.53m(水面から船橋最上端まで)
14.02m(水面から煙突最上端まで)
ボイラー 石川島造船所製石炭専燃缶[1]
主機関 神戸製鋼所三連成レシプロ機関 1基[1]
推進器 1軸[1]
出力 4,352IHP[1]
最大速力 14.2ノット[1]
航海速力 10.0ノット[1]
航続距離 10ノットで13,500浬
旅客定員 一等:4名[1]
乗組員 41名[1]
1941年10月10日徴用
高さは米海軍識別表[3]より(フィート表記)
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第一吉田丸(だいいちよしだまる)は、1919年(大正8年)に浅野造船所で竣工し、山下汽船が保有して運航した貨物船太平洋戦争では日本陸軍により徴用され、1944年(昭和19年)に竹一船団へ加入中にアメリカ海軍潜水艦により撃沈され、2500人以上の死者を出した。

建造

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本船は、第一次世界大戦の船舶特需の中で、創業間もない浅野造船所(横浜市鶴見)において建造された。浅野造船所内でB型船と呼ばれた載貨重量トン数8500トン級貨物船[注 1]の1隻で、基本的なスタイルは当時の貨物船に一般的な三島型(船首楼・中央楼・船尾楼を有する船体)で船体中央に船橋と煙突1本を配置し、主機は神戸製鋼所製の三連成レシプロ機関 、主缶は石川島造船所製の石炭ボイラーを搭載した[1]

このB型船の設計は、当時の浅野造船所がA型船と呼んだ「白鹿丸」を一番船とする大型貨物船(11500載貨重量トン級)より若干小規模で、A型船が軍事輸送に好適な船型として輸出されたのに対して、B型船は一般船会社に好評であった[5]。そのため、浅野造船所で4年間に本船を含め同型船23隻、浦賀船渠でも同型船「香洋丸」が次々建造された。ただし、同型船の建造中に第一次世界大戦が終結して船舶需要が激減、海運・造船業界が不況となったため、浅野造船所製24隻目「寿洋丸」は建造が滞って完成まで5年5ヶ月の長期を要したほか、余剰在庫となってしまった船が多く出て同型船のうち10隻は浅野造船所の関連会社である東洋汽船に引き取られた[6]。余剰在庫船の運用を目的とする国際汽船に引き取られた同型船も多い[7]

運用

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竣工した本船は、山下汽船が船主となって運航した。山下汽船は他の日本の船会社と異なって社船をあまり長期保有しない傾向があり、例えば1903年(明治36年)から1933年(昭和8年)までの間に取得した社船51隻中27隻を在籍期間5年以下で放出しているが、本船は24年3ヶ月の長期間に渡って山下汽船で保持された[8]

太平洋戦争時に本船は日本陸軍により徴用され、軍隊輸送船となった。そして、1944年(昭和19年)4月、中国大陸からハルマヘラ島に守備隊を増強する重要船団の竹一船団に加えられ、第32師団歩兵第210連隊主力など約3500人を乗船させた。しかし、同年4月26日午前3時45分、上海から経由地のマニラへ向けて航行中、ルソン島北緯18度06分 東経119度40分 / 北緯18.100度 東経119.667度 / 18.100; 119.667付近でアメリカ海軍潜水艦「ジャック」の襲撃により魚雷2本が命中してまもなく沈没した[9]。その際、輸送中の歩兵第210連隊長の小池安正大佐以下2586人が戦死した[10][11][注 2]。大内健二によると船員・船舶砲兵を含めた死者数は2651人に上り、太平洋戦争中の日本輸送船としては9番目に多い[12]

脚注

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注釈

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  1. ^ 総トン数では約5400トンだが、辰馬汽船向けの「呉羽丸」は5809総トンで若干大きい[4]
  2. ^ 陸軍運輸部が終戦後に作成した『船舶輸送間に於ける遭難部隊資料(陸軍)』による乗船者(戦死者)の内訳は、歩兵第210連隊:2906人(2155人)、野砲兵第32連隊第2大隊:301人(241人)、工兵第32連隊第1中隊:120人(104人)、輜重兵第32連隊第1中隊:70人(46人)、第32師団第1野戦病院の一部:30人(26人)、第32師団通信隊の一部:16人(16人)の計3446人(2586人)[11]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 運輸通信省海運総局(編) 『昭和十八年版 日本汽船名簿(内地・朝鮮・台湾・関東州)』其の一(下)、運輸通信省海運総局、1943年、内地在籍船の部369頁、アジア歴史資料センター(JACAR) Ref.C08050083700、画像35枚目。
  2. ^ 松井(2006年)、80頁。
  3. ^ Biyo_Maru_class
  4. ^ 松井(2006年)、115頁。
  5. ^ 浅野造船所(1935年)、34-35頁。
  6. ^ 松井(2006年)、133、138-139頁。
  7. ^ 浅野造船所(1935年)、91-92頁。
  8. ^ 松井(2006年)、72、80頁。
  9. ^ Cressman, Robert (1999). The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II. Annapolis MD: Naval Institute Press. http://www.ibiblio.org/hyperwar/USN/USN-Chron/USN-Chron-1944.html 
  10. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室 『南西方面海軍作戦 第二段作戦以降』 朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1972年、401頁。
  11. ^ a b 陸軍運輸部残務整理部 『船舶輸送間に於ける遭難部隊資料(陸軍)』 JACAR Ref.C08050112500、画像21枚目。
  12. ^ 大内健二 『商船戦記―世界の戦時商船23の戦い』 光人社〈光人社NF文庫〉、2004年、339頁。

参考文献

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  • 浅野造船所『我社の生立』浅野造船所、1935年。 
  • 松井邦夫『日本商船・船名考』海文堂、2006年。