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美幌海軍航空隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

美幌海軍航空隊(みほろかいぐんこうくうたい)は、日本海軍の部隊の一つ。六番目の陸上攻撃機部隊として、大東亜戦争序盤より中盤にかけて最前線で爆撃・攻撃・偵察行動に従事した。1942年(昭和17年)11月1日に初代の第七〇一海軍航空隊(だいななまるいちかいぐんこうくうたい)と改称。

沿革

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陸上攻撃機部隊の増強を図るために、④計画に盛り込まれた4個航空隊の一つとして、中国戦線での活動を終えた第十五航空隊の陸攻要員を元山海軍航空隊と分け合って開隊した。千島列島方面での作戦行動に対応すべく、既設の中央気象台飛行場(現在の女満別空港のルーツ)とは関係なく新規建設した飛行場を用いた。地名の「びほろ」ではなく「みほろ」と呼んでいたとする証言が多数あり、海軍でも建設中は「M基地」の符牒で呼び、機体番号に冠する区別字は日本国内では「ミ」と定められ[1]、外地では「M」を使用していた。

以後、ツドゥム(Thu Dau Mot)・コタバルクアンタンと前進しつつ、マレー・シンガポール・スマトラボルネオ爆撃に従事。

  • 1942年(昭和17年)
    • 3月22日 - スマトラ島北方サバン島に進出、以後マラッカ海峡インド洋哨戒に従事。
    • 5月10日 - 木更津飛行場に帰還。30日美幌着(美幌空唯一の美幌基地利用)。陸攻36機に削減。

以後、本隊は美幌で訓練・哨戒に従事、分遣隊は幌筵島に進出しアリューシャン列島哨戒に従事。

美幌航空隊が美幌飛行場を使ったのは、マレーから帰還して南洋に進出するまでの2ヶ月に過ぎないが、ドーリットル隊を追撃した木更津海軍航空隊が進出したことがある。1944年(昭和19年)後半に空地分離策が実行され、北東海軍航空隊司令部が美幌に進駐した。終戦までに美幌周辺に3箇所の飛行場が造成された。敗戦後に進駐した連合軍は、美幌第二飛行場の滑走路を徹底的に破壊したが、第三美幌飛行場は緊急用に温存した。

美幌第一飛行場跡には陸上自衛隊美幌駐屯地が開かれ、破壊された第二美幌飛行場は旧女満別空港として復興され、後にテストコースに転換され健在である。また美幌飛行場の格納庫は、解体後の1950年(昭和25年)に旭川市で開かれた北海道開発大博覧会の「開発館」として移設され、後に旭川市総合体育館常磐分館となり1993年(平成5年)まで使用された。

主力機種

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美幌空は当初より陸攻専用の航空隊として編成されていた。後継機の一式陸上攻撃機は1942年(昭和17年)上半期に最前線部隊へ優先して配当されたため、この時期に内地に帰還していた美幌空には配当されなかった。つまり美幌空所属の実戦用機体は「中攻」すなわち九六式陸上攻撃機のみである。

歴代司令

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  • 宗雪新之助 大佐:1940年10月1日[2] - 1941年3月1日殉職
  • 近藤勝治 大佐:1941年3月5日[3] - 1942年3月20日[4]
  • 山田豊 中佐/大佐:1942年3月20日[4] - 第七〇一海軍航空隊司令 1942年11月1日[5] - 1943年3月15日[6]、同日付解隊

脚注

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参考文献

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  • 『日本海軍編制事典』芙蓉書房出版、2003年。
  • 『航空隊戦史』新人物往来社、2001年。
  • 『日本海軍航空史2』時事通信社、1969年。
  • 『日本海軍航空史4』時事通信社、1969年。
  • 『戦史叢書 海軍航空概史』朝雲新聞社、1976年。
  • 『戦史叢書 比島・マレー方面海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年。
  • 『戦史叢書 南東方面海軍作戦3』朝雲新聞社、1976年。
  • 『連合艦隊海空戦戦闘詳報別巻1』アテネ書房、1996年。

関連項目

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