第12回ジャパンボウル
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開催日 | 1987年1月11日 | ||||||||||||||||||
スタジアム | 横浜スタジアム | ||||||||||||||||||
開催地 | 横浜市 | ||||||||||||||||||
入場者数 | 30,000 |
第12回ジャパンボウルは1987年1月11日、横浜スタジアムで行われたカレッジフットボールのオールスター東西対抗戦。ハイズマン賞を受賞したビニー・テスタバーディなど、東軍は18大学、西軍は20大学から66人が選抜された[1]。西軍が24-17で9回目の勝利をあげた[2]。
試合経過
[編集]前半は、東軍のオフェンスラインが西軍を押した。後半に西軍の4-3ディフェンスがラッシュを激しくし、ディフェンスバックもゾーンディフェンスに切り替えて東軍のQBテスタバーディによるパス攻撃を抑えた[2][3]。
第1Q、テネシー大学のカルロス・リベイズ(Carlos Reveiz)が39ヤードのFGを決めて3-0と東軍が先制した[4]。西軍はUCLAのマット・スティーブンスがコロラド州立大学のスティーブ・バーテイロに19ヤードのTDパスを決めて7-3と逆転した[4]。東軍は南ミシシッピ大学のコリンズ・ヘス(Collins Hess)がインターセプトして得たチャンスを、マイアミ大学のジェローム・ブラウンが2ヤードを走ってTD、10-7とリードして前半を終えた[4]。
第3Q、USCのキッカー、ドン・シェイファー(Don Shafer)が25ヤードのFGを成功し、10-10の同点となった[4]。
第4Qはじめに東軍は敵陣28ヤードで、第4ダウン数インチとなったが、テスタバーディがペンシルベニア州立大学のブライアン・シバーリング(Brian Siverling)に9ヤードのパスを通してファーストダウンを獲得、ボストンカレッジのトロイ・ストラドフォードが19ヤードを走って17-10とリードした[4]。西軍はスティーブンスが16ヤード、18ヤード、18ヤードのパスを通し、残り7分にオレゴン大学のケビン・ウィルハイトが2ヤードを走ってTD[2]、79ヤードのドライブをあげたが、トライフォーポイントをシェイファーが失敗した[4][2]。16-17と1点を追う西軍は、残り4分を切って自陣21ヤードまで攻め込まれたがサンノゼ州立大学のケビン・クラークが相手QBマイク・シュラのパスをエンドゾーン内でこの日3回目のインターセプト、34ヤードリターンした後、オクラホマ州立大学のマーク・ムーア(Mark Moore)が18ヤードリターンして敵陣48ヤードまでボールを戻した[4][2]。3プレー後の残り2分7秒に、スティーブンスからフレズノ州立大学のWRスティーブン・ベイカーへの36ヤードのTDパスで逆転、アイオワ大学のロバート・スミス(Robert Smith)への2ポイントコンバージョンも決まり、24-17で勝利した[4]。
この試合でテスタバーディはパス18回中10回成功、145ヤード、3インターセプトを喫した。スティーブンスは、パス19回中17回成功、225ヤード、インターセプトなし、西軍の先発QB、アイオワ大学のマーク・ブラシックは第3Qにひざを負傷して退場した。ケビン・クラークは、テスタバーディから2インターセプト、マイク・シュラから1インターセプトをあげて、最優秀ディフェンシブバックに選ばれた[5]。
MVPには10回のランで95ヤードを走ったボストンカレッジのトロイ・ストラドフォードが選ばれた[6]。
脚注
[編集]- ^ ジャパンボウルは一月十一日 読売新聞 1986年12月13日 朝刊17ページ
- ^ a b c d e “Matt Stevens' Touchdown Pass Wins for West in Japan Bowl”. ロサンゼルス・タイムズ (1987年1月11日). 2015年8月16日閲覧。
- ^ 西軍、第4Qに逆転 ジャパンボウル 読売新聞 1987年1月12日
- ^ a b c d e f g h “Testaverde builds Japan Bowl leads, but West steals it back”. シカゴ・トリビューン (1987年1月12日). 2015年8月18日閲覧。
- ^ Gerald Eskenazi (1988年1月24日). “SUPER BOWL XXII; Replacement Players in Line for Super Payoff”. ニューヨーク・タイムズ. 2015年8月18日閲覧。
- ^ “Japan Bowl Trophy”. joeroth12.com. 2015年8月18日閲覧。