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篠原昌三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

篠原 昌三(しのはら しょうぞう、1899年3月9日[1] - 1986年)は、日本の通信技術者実業家

経歴

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篠原多一郎の三男として福岡市に生まれる[1]1918年福岡県立中学修猷館[2]を経て、1922年7月東京高等工業学校(現・東京工業大学)電気科を卒業[3]

卒業後、朝鮮総督府逓信局の技手となる。同局において放送用無線電話(ラジオ放送)の調査研究と知識普及のために、官営の実験用無線電話局を開設することが計画され、篠原にその任務が命ぜられる。1924年1月に東京に赴き、技術修得と共に、通信機器を調達、京城に戻り、通信設備工事と機器調整を行い、同年11月、朝鮮半島最初の放送電波を発射した。1926年11月京城放送局(コールサイン「JODK」)が設立され、篠原はその技術責任者として通信設備を構築し、1927年2月16日、1kw放送設備での本放送が開始された。なお、この2月16日は、現在韓国の放送記念日となっている。1932年4月、京城放送局は朝鮮放送協会として改組され、篠原はその技術部長に就任する。京城の放送局は、その「京城中央放送局」となる。この頃、聴取者が伸びず、経営難が続いていたが、篠原の指揮のもと、10kw二重放送の設備が構築され、1933年4月にその本放送が開始されたことにより、聴取者が倍増し、経営が安定した。1938年10月全朝鮮半島の放送網を完成させた。その後、京城中央放送局長、朝鮮放送協会理事に就任した[4][1]

終戦後、朝鮮半島から引き揚げると、一時福岡で米軍の技術労務者となるが、旧知の上司から引き立てられ、1949年国家地方警察大阪警察管区本部無線通信課長となり、1953年11月警察庁中国管区警察局通信部長を経て、1957年12月関東管区警察局通信部長に就任[1]。1960年3月退職後、広島市の電気通信工事会社である大亜工業の副社長に就任する[5][6]

脚注

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  1. ^ a b c d 『人事興信録第20版』(人事興信所、1959年) シ-頁
  2. ^ 『修猷館同窓会名簿 修猷館235年記念』(修猷館同窓会、2020年)同窓会員13頁
  3. ^ 『東京高等工業学校一覧 (従大正11年至大正12年)』(東京高等工業学校、1922年)148頁
  4. ^ 『JODK-朝鮮放送協会回想記』朝放会本部、1981年
  5. ^ 篠慧子『幻の放送局-JODK』鳥影社、2006年、158-159頁
  6. ^ 『人事興信録第25版』(人事興信所、1969年) シ-46頁