篠原無然
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しのはらむぜん 篠原無然 | |
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篠原無然画像 | |
生誕 |
篠原禄次(本名) 1889年3月7日 兵庫県二方郡西浜村諸寄 ( 現 美方郡新温泉町) |
死没 |
1924年11月14日(35歳没) 岐阜県吉城郡上宝村平湯 ( 現 岐阜県高山市) |
死因 | 遭難死 |
記念碑 | 篠原無然生誕百年記念碑など |
国籍 | 日本 |
教育 | 早稲田大学中退 |
職業 | 代用教員 |
活動期間 | 1914 - 1924年 |
著名な実績 | 飛騨の社会教育 |
影響を受けたもの |
後藤新平 新井奥邃 |
活動拠点 | 岐阜県吉城郡上宝村平湯など |
親 |
父:六一 母:つる |
篠原無然(しのはらむぜん、本名:篠原禄次。1889年(明治22年)3月7日 - 1924年(大正13年)11月14日)[1]は、飛騨地方で活動した教育者である。
兵庫県二方郡西浜村(現 美方郡新温泉町)諸寄(もろよせ)出身。早稲田大学中退。社会教育の先駆者。1914年(大正3年)11月、岐阜県飛騨地方の吉城郡上宝村(現 高山市)にあった上宝村第一小学校(現 高山市立本郷小学校)の代用教員となり、以降飛騨を中心に青年の教育や工女の待遇改善などに尽力。地元の青年たちと乗鞍岳登山道を整備した。乗鞍岳の姫ケ原・土俵ケ原や桔梗ケ原などの命名者としても知られる。雪の安房峠で遭難し、36年の生涯を閉じた。
経歴
[編集]- 1889年(明治22年)兵庫県二方郡西浜村(現 美方郡新温泉町)諸寄に生まれる。父・六一、母・つる。
- 1903年(明治36年)高等小学校を卒業し神戸の野口貿易商会へ見習社員として入社。
- 1904年(明治37年)4月、神戸商業学校( 現 兵庫県立神戸商業高等学校)入学。
- 1907年(明治40年)9月、神戸で後藤新平の知遇を得る。この後、健康を害し神戸商業を中退する。
- 1909年(明治42年)春、兵庫県美方郡小代村(現 香美町)の小学校へ代用教員として赴任。
- 1910年(明治43年)11月『青年団の組織と事業』発行。二学期末に学校を辞任。
- 1911年(明治44年)4月、上京する。早稲田大学文科に入学。
- 1913年(大正2年)修養団機関雑誌『向上』の編集責任者となる。このころ新井奥邃の知遇を得る。山にこもり修養したいとの思いを募らせる。
- 1914年(大正3年)冬、上宝村本郷第一小学校(現 高山市立本郷小学校)の代用教員として奉職。
- 1915年(大正4年)4月、平湯分校へ転任。この後、飛騨地区の青年教育に熱心に取り組む。社会教育家として飛騨の工女たちの教育指導にも取り組む。
- 1923年(大正12年)3月、指導下にあった工女が入水し死亡。これを無然と結びつける排斥運動が活発化する。9月、関東大震災の救援活動のため上京。いったん平湯に帰った後の12月、大阪府住吉村帝塚山にある芸娼妓専門の難波病院に、大阪府の嘱託として勤務。
- 1924年(大正13年)10月大阪府を去り上京。その後平湯に帰ろうとして11月14日、雪の安房峠で遭難死。36歳。
著作
[編集]- 『容貌と人格』東京神田東亜堂、1914年
- 『青年団の組織及事業』実業之友社、1915年
- 『青年の光輝』中外印刷、1916年
- 『山嶽生活』大倉書店、1918年
- 『山の愛』未刊
- 『山上浄土』未刊
- 『日本アルプス物語』未刊
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 江夏美好『雪の碑』河出書房新社、東京都渋谷区、1980年11月。ASIN B000J82QOG。ISBN 9784309003146。
- 今田勝躬『飛騨と無然』
- 道下淳「「雪の碑」の篠原無然」『岐阜を考える 1998年冬・春合併』第96号、岐阜県産業経済研究センター、2015年1月15日閲覧。
関連項目
[編集]- 平湯民俗館 - 篠原無然記念館がある
外部リンク
[編集]- “篠原無然”. 新温泉町 (2006年11月22日). 2015年1月15日閲覧。
- “篠原無然:飛騨青年の叫び”. 高山市文化協会 (2015年10月3日). 2019年3月8日閲覧。