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米倉昌言

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
米倉昌言
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 天保8年3月9日1837年4月13日
死没 明治42年(1909年2月27日
改名 直吉(幼名)、昌言
墓所 神奈川県横浜市金沢区六浦町の米倉氏墓地
官位 従五位下下野守丹後守正五位従四位正四位従三位子爵
幕府 江戸幕府
主君 徳川家茂慶喜明治天皇
武蔵金沢藩
氏族 米倉氏
父母 米倉昌寿板倉勝長娘・演暢院
兄弟 朽木紘綱昌言池田頼誠昌慧
安部信発正直昌邦本多助実継室、
恒子ら
諏訪忠恕
本庄道美
昌臧昌大諏訪頼固
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米倉 昌言(よねくら まさこと)は、江戸時代後期の大名武蔵国六浦藩8代藩主。官位従五位下下野守丹後守。維新後、六浦知藩事子爵。六浦藩米倉家11代。

生涯

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天保8年(1837年)3月9日、7代藩主・米倉昌寿の六男として誕生した。

安政5年(1858年)5月、13代将軍・徳川家定御目見し、6月に叙任する。万延元年(1860年)6月24日、父が病気を理由に隠居したため、その跡を継ぐ。幕末の動乱期の中では佐幕派として行動し、田安門番や日光祭礼奉行を務めた後の文久3年(1863年)2月に大坂加番元治元年(1864年)10月には大番頭を務めた。同年の第一次長州征討慶応2年(1866年)の第二次長州征討にも参加している。

慶応3年(1867年)末、横須賀製鉄所の警護を務めたが、慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に恭順した。明治2年(1869年)6月の版籍奉還知藩事となり、金沢藩を六浦藩と改称する。明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官となり、明治17(1884年)7月8日、子爵叙爵[1]

明治42年(1909年)2月27日、死去。享年73。

家族

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父母

子女

脚注

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  1. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
六浦米倉家初代
1884年 - 1909年
次代
米倉昌臧