米津政矩
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 延宝3年(1675年) |
死没 | 元禄16年1月15日(1703年3月2日) |
改名 | 小大夫(幼名)、政矩 |
戒名 | 高嶽源水春光院 |
墓所 | 東京都東久留米市前沢の米津寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉 |
藩 | 武蔵久喜藩主 |
氏族 | 米津氏 |
父母 | 米津政武 |
兄弟 |
政矩、政容、伊沢政周、 大久保教寛正室、青木直宥正室 |
妻 | 五島盛暢娘 |
子 | 政容 |
米津 政矩(よねきつ まさのり)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。武蔵国久喜藩2代藩主。
略歴
[編集]延宝3年(1675年)、初代藩主・米津政武の長男として誕生した。正室は五島盛暢娘。
元禄11年(1698年)11月11日、父の隠居により家督を継ぐ。大坂加番に任じられて大坂に赴任するが、在任中の元禄16年(1703年)1月15日、大坂で死去した。享年29。
跡を弟で養子の政容が継いだ。
墓所は東京都東久留米市の米津寺内にある米津家大名墓所(東京都指定史跡)[1]。