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紀益麻呂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
紀 益麻呂
時代 奈良時代
生誕 不明
死没 不明
改名 益人(初名)→紀益麻呂→田後部益人
官位 従四位下陰陽頭
主君 称徳天皇光仁天皇
氏族 朝臣→田後部
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紀 益麻呂(き の ますまろ)は、奈良時代貴族氏姓紀朝臣のち田後部。初名は益人官位従四位下陰陽頭

経歴

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元は氏姓を持たず益人を名乗る、紀寺であった。天平宝字7年(763年)以下理由により身分を見直して、良民とすべき旨を訴える。

紀袁祁臣の娘である粳売は木国氷高評(紀伊国日高郡)の内原直牟羅[注釈 1]に嫁ぎ、身売・狛売の2人の娘を生んだ。急な事情があったので、私が手配して彼らを紀寺に住まわせ、寺の工人の食事を作らせていた。その後、持統天皇4年(690年)の戸籍庚寅年籍)作成の際に、三綱が彼らを(本来良民とすべきところ)奴婢としてしまった。

そこで、経緯の調査および身分の判断を行うように勅令を受けて、御史大夫文室浄三が調査を行ったところ、僧綱所にあった庚午年籍に以下の通り記載があった。

  • 寺の賤民として、奴の太者並びに娘の粳売その子身売・狛売の名があった。
  • 両親の何れかが奴婢でその子が奴婢となった場合は、理由が明示されるはずだが、太者とその子は理由の記載がなかった。

上記を受けて、①戸籍の根本である庚午年籍に従って賤民とすべき、②疑わしい場合は良民とすべき、の2つの意見が対立したため、浄三が天皇の裁決を仰いだ。天皇からは良民とすべき勅が出され、益麻呂ら12名が紀朝臣、真玉女ら59名が内原直の氏姓を与えられ、益麻呂を戸主として京の戸籍に編入された。これに対して紀伊保が勅令ではないと疑ったことから、孝謙上皇が文室浄三と参議藤原朝狩を召して改めて勅の趣旨を聞かせた[1]

天平神護元年(765年従六位上から三階昇進して従五位下叙爵陰陽員外介を経て、神護景雲元年(767年)二階昇進して正五位下・陰陽頭、神護景雲4年(770年)二階昇進して従四位下と称徳朝で順調に昇進を果たす。

光仁朝の宝亀4年(773年庶人に落とされ、田後部 益人改姓改名させられた。同時に天平宝字7年(763年)に解放された紀寺の賤民75名について、元の通り寺奴婢に戻されたが、益人のみ良民のまま身分を維持されている。これは、孝謙天皇時代の政治が光仁天皇によって見直されたからであると考えられる[2]

官歴

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続日本紀』による。

脚注

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注釈

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  1. ^ 「出雲国計会帳」天平5年9月6日付符には「紀打原直忍熊」という人物が見え、紀氏の一族であった。また、『新撰姓氏録』巻30未定雑姓河内国に「狭山命之後也」と見える

出典

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  1. ^ 『続日本紀』天平宝字8年7月12日条「紀寺奴益人等訴云。紀袁祁臣之女粳売。嫁本国氷高評人内原直牟羅。生児身売。狛売二人。蒙急、則臣処分、居住寺家。造工等食。後至庚寅編戸之歳。三綱校数、名為奴婢。因斯、久時告愬。分雪無由。空歴多年。于今屈滞。幸属天朝照臨宇内。披陳欝結。伏望、正名者。為賤為良。有因有果。浮沈任理。其報必応。宜存此情。子細推勘浮沈所適。剖判申聞者。謹奉厳勅捜古記文。有僧綱所庚午籍。書寺賤名。中有奴太者并女粳売及粳売児身売・狛売。就中、異腹奴婢皆顕入由。太者并児入由不見。或曰。戸令曰。凡戸籍恒留五比。其遠年者依次除。但近江大津宮庚午年籍不除。蓋為氏姓之根本。遏姦欺之乱真歟。拠此而言。猶為寺賤。或曰。賞疑従重。刑疑従軽。典冊明文。何其不取。因斯覆審。或可従浮。双疑聳立。各自争長。浄三等庸愚。心迷孰是。軽陳管見。伏聴天裁。奉勅。依後判。於是、益麻呂等十二人賜姓紀朝臣。真玉女等五十九人内原直。即以益麻呂為戸頭。編附京戸。 」
  2. ^ 堀裕『大阪樟蔭女子大学論集第15号』「奈良平安期における紀寺・璉城寺の基礎的考察」(2008年)

参考文献

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