紙屋城
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紙屋城 (宮崎県) | |
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城郭構造 | 山城 |
天守構造 | なし |
築城年 | 不明 |
主な城主 | 米良主税助 |
廃城年 | 元和元年(1615年) |
遺構 | 曲輪、空堀、土塁 |
指定文化財 | 空堀の一部が小林市指定史跡[1] |
位置 | 北緯31度57分06.5秒 東経131度11分26.9秒 / 北緯31.951806度 東経131.190806度 |
地図 |
紙屋城(かみやじょう)は、宮崎県小林市野尻町(旧西諸県郡野尻町)紙屋字城原にあった日本の城(山城)[2]。伊東四十八城の一つ。空堀の一部が市の史跡に指定されている[1]。
概要
[編集]秋社川に面した台地末端に築かれた山城で、城跡は南北に長く、南北約1400メートル×東西約600メートルにおよぶ[3]。北側以外が険峻な崖に挟まれた要害の地に建てられ、S字型の連郭式山城で5つの曲輪と10にも及ぶ堀があった。
北側から1-3段目の堀は東西の谷を結び人工的に作られたものであるが、それ以外は天然の地形を利して最小限の普請で作られている。北側から5段目と6段目の堀の間に鐘撞堂が存在し、6段目と7段目の堀の間にあった4番目の曲輪が本丸に該当した。
歴史
[編集]築城年代は不明、築城者は紙屋氏であるという。
天正5年(1577年)12月7日、伊東氏家臣で野尻城の城主・福永祐友が島津氏に寝返ると、紙屋城主で祐友の縁戚であった米良主税助もこれに呼応したため、その翌日に紙屋城も島津氏の城に帰した。
文化財
[編集]2段目の堀跡が「紙屋城第二の空堀跡」として1988年(昭和63年)3月8日に当時の野尻町指定史跡に指定されている(現在は小林市指定史跡)[1]。また、当地域の伊東・島津両氏による城の争奪戦は後世に語り継がれ、江戸時代には「城攻めおどり」として民俗芸能となっており、「紙屋城攻めおどり」は1988年(昭和63年)7月16日に野尻町(小林市)指定無形民俗文化財に指定されている[4]。
脚注
[編集]- ^ a b c 「紙屋城第二の空堀跡」小林市公式HP
- ^ 宮崎県教育庁文化課 1998 p.22
- ^ 宮崎県教育庁文化課 1999 p.149
- ^ 「紙屋城攻めおどり」小林市公式HP
参考文献
[編集]- 宮崎県教育庁文化課 1998「地名表」『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書1(地名表・分布地図編)』宮崎県教育委員会 p.22
- 宮崎県教育庁文化課 1999「紙屋城」『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書2(詳説編)』宮崎県教育委員会 p.149
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 「小林市指定文化財一覧」小林市公式HP