細野藤敦
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 天文10年(1541年) |
死没 | 慶長8年2月26日(1603年4月7日) |
改名 | 藤敦→伊三(法号) |
別名 | 守清、九郎右衛門(通称) |
戒名 | 永盛(法名) |
官位 | 壱岐守 |
主君 | 長野具藤→信包→蒲生氏郷→豊臣秀吉→秀頼 |
氏族 | 細野氏 |
父母 | 父:細野藤光、母:峰道正娘 |
兄弟 | 藤敦、分部光嘉、川北藤元 |
子 | 養子:八麿(滝川一益子) |
細野 藤敦(ほその ふじあつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。伊勢国安濃城主。
略歴
[編集]天文10年(1541年)、長野工藤氏の一族・細野藤光の子として誕生。
天文年間より長野宗家に従い北畠家や関氏、神戸氏との戦いに従軍し、剛勇を以て知られるが、北畠家より養子に入った主君・長野具藤とは仲が悪かった。永禄年間(1558年 - 1569年)に、安濃津城を築城したといわれる。永禄11年(1568年)、織田信長が長野領に侵攻してきた際は、和睦を主張する弟・分部光嘉らの反対を押し切って、自城に籠って防戦しようとした。光嘉や川北藤元らは織田家に内応して織田信包に長野氏の跡を継がせるべく画策し、藤敦が織田家に寝返ったと讒言して、具藤に藤敦を攻めさせた。藤敦はやむなくこれを撃退し、具藤を追放して織田家に降伏することとなった。
しかし藤敦は信包とも折り合いが悪く、天正5年(1577年)に信包が年賀の挨拶に出かけた隙に、謀反を起こし長野城を奪うが、滝川一益の子・八麿を藤敦の養嗣子とすることで和睦し、帰参した[1]。
天正8年(1580年)、信包の軍勢に居城・安濃城を攻められると、藤敦は城を捨てて蒲生氏郷を頼るが、後に豊臣秀吉が天下人となるとその家臣となった。慶長3年(1598年)には伏見城松ノ丸の守将となり、秀吉側室の松丸殿の家司を務めたが、秀吉の死後、松丸殿は兄・京極高次の居城である大津城に移っているため、家司の任は解かれたものと思われる[2]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属したため、戦後失領した。