結城弥平次
時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
---|---|
生誕 | 天文13年(1544年)[1][2] |
死没 | 不明 |
別名 | 弥平治[3][4] |
霊名 | ジョルジ[5](ジョルジュ[4]) |
主君 | 結城ジョアン→高山右近→小西行長→加藤清正→有馬晴信→直純 |
藩 | 肥後熊本藩→肥前日野江藩 |
氏族 | 結城氏 |
妻 | マルタ(結城ジョアンの姪)[6] |
子 | モニカ[7] |
結城 弥平次(ゆうき やへいじ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけてのキリシタン武士。小西行長や有馬晴信に仕えた。肥後国愛藤寺城代、肥前国金山城(結城城)主。
生涯
[編集]弥平次は、松永久秀に属した結城忠正の甥[8]。忠正は永禄6年(1563年)に改宗した畿内で最も古いキリシタンであり[9]、弥平次もその翌年の永禄7年(1564年)に洗礼を受けて[10]、ジョルジと名乗った[5]。
河内国岡山城主である甥の結城ジョアンを後見した[11]。ジョアンは弥平次の影響でキリスト教に改宗したという[12]。弥平次はジョアンともども熱心なキリシタンだったといい[8]、天正4年(1576年)[13]に京都に南蛮寺が建てられた際はそれに協力し[14]、同じ頃に岡山(大阪府四条畷市)に教会が建設された際は、ジョアンと共にそれに尽力した[13]。
また、弥平次は金の十字架と「JESUS」の文字を付けた兜を使用しており、これにより命拾いしている[15]。元亀元年(1570年)、400人余りの家臣と共に河内古橋で米を徴収していた弥平次は、敵兵2,500に襲われた[15]。味方の大半は討たれることとなったが、弥平次の兜を見た敵方のキリシタン・三木伴大夫(パウロ三木の父)に保護され、弥平次は助かったという[15]。ルイス・フロイスの『日本史』に記された[15]この戦いは、同年に三好三人衆が古橋城を攻めた時のものとみられ[16]、この戦いでは古橋城にいた兵300人[17]、または400人のうち[18]、220人前後[17][18]、あるいは300人ほどが討死したとされている[19][20]。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでジョアンが戦死し[21]、結城家が断絶すると、弥平次は高山右近に仕えることとなった[22]。
その後、小西行長に仕え[23]、天正15年(1587年)、小西行長に与えられた室津付近の家屋に、小豆島へ潜入するオルガンティーノを宿泊させている[24]。
翌天正16年(1588年)に小西行長が肥後国宇土に入部した際、弥平次はその重臣となっており[25]、益城郡矢部の愛藤寺城と岩尾城の城代を太田市兵衛と共に務めた[26][27]。与力として、土橋掃部・島沢市右衛門・平地源右衛門・中小路三右衛門・後藤三五兵衛・田辺平右衛門・加々山次郎作・岡兵右衛門・横田勘左衛門・天木庄太夫・小野田弥右衛門・吉田木工右衛門・速水七左衛門らが付属された[27][注釈 1]。
文禄2年(1593年)5月の明使来日の際には世話役を任される[28]。また、行長の信頼が厚かったため、文禄・慶長の役の際はその留守を預かって肥後南部の統治に当たった[2]。
慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が死去すると、小西行長は領民のキリスト教改宗を進めた[29]。矢部でも弥平次が布教を進め[30]、慶長4年(1599年)の暮れの時点で4,000人の信者がいたという[31]。慶長5年(1600年)には愛藤寺城に常駐する宣教師を迎え入れ、この年、4,070人の大人が受洗したとされる[31]。
同年9月に起きた関ヶ原の戦いで、小西行長は処刑されたが[32]、この戦いの際、弥平次は小西末郷らとともに国許に残っていた[33]。この後、行長の領した肥後南部は加藤清正が支配することになり、清正がキリスト教の弾圧を始めたことで、弥平次は肥後から離れた[34]。慶長7年(1602年)には有馬晴信に知行3,000石で召し抱えられ、金山城(結城城)主となっている[35]。晴信死後の慶長18年(1613年)、転宗を拒否したために主君・有馬直純によって封禄没収・国外追放を命じられた[36]。
長崎へ追放された後の消息は不明だが、寛永5年(1628年)に末次平蔵の台湾派遣船(タイオワン事件)に浜田弥兵衛と共に乗船していたという説もある[1]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b “人物紹介|小西行長の部屋”. 宇土市. 2015年10月31日閲覧。
- ^ a b 鳥津 2010, p. 328.
- ^ 太田亮『姓氏家系大辞典第三巻・ナ―ワ』姓氏家系大辞典刊行会、1936年、6428頁 。
- ^ a b 平井聖; 村井益男; 村田修三 編「結城城」『日本城郭大系 第17巻』新人物往来社、1980年、189–190頁。全国書誌番号:81003325。
- ^ a b 松田 1967, p. 685; 谷口 2010, p. 523; 鳥津 2010, p. 328; 滝澤 2017, p. 371.
- ^ 松田 1967, p. 686; 滝澤 2017, p. 372.
- ^ 滝澤 2017, pp. 372, 376.
- ^ a b 谷口 2010, pp. 522–523.
- ^ 松田 1967, p. 682; 谷口 2010, p. 522.
- ^ 松田 1967, p. 685; 滝澤 2017, p. 371.
- ^ 松田 1967, p. 686; 谷口 2010, pp. 522–523.
- ^ 松田 1967, p. 688; 滝澤 2017, p. 372.
- ^ a b 滝澤 2017, p. 372.
- ^ 松田 1967, p. 686; 谷口 2010, p. 523; 滝澤 2017, p. 372.
- ^ a b c d 滝澤 2017, pp. 373–374.
- ^ 松田 1967, pp. 686–687, 707.
- ^ a b 『細川両家記』(塙保己一 編『群書類従 第拾参輯』経済雑誌社、1894年、646頁)。
- ^ a b 『尋憲記』(藤井寺市史編さん委員会 編『藤井寺市史 第四巻 史料編二下』藤井寺市、1985年、627頁。全国書誌番号:85046569)。
- ^ 『言継卿記』(山科言継『言継卿記 第四』国書刊行会、1915年、439頁)。
- ^ 『多聞院日記』(英俊『多聞院日記 第二巻』三教書院、1935年、204頁)。
- ^ 松田 1967, p. 689; 谷口 2010, p. 522; 滝澤 2017, p. 372.
- ^ 滝澤 2017, pp. 372–373.
- ^ 滝澤 2017, p. 374.
- ^ 松田 1967, p. 687.
- ^ 鳥津 2010, pp. 84–90.
- ^ 鳥津 2010, pp. 91–92.
- ^ a b c 森本一瑞 編『増補校訂 肥後国志 巻之拾二』水島貫之 校補、熊本活版舎、1884年 。125丁裏。
- ^ 松田 1967, p. 687; 谷口 2010, p. 523.
- ^ 鳥津 2010, pp. 197–198.
- ^ 鳥津 2010, p. 199.
- ^ a b 滝澤 2017, p. 378.
- ^ 鳥津 2010, pp. 204–208.
- ^ 鳥津 2010, p. 205.
- ^ 鳥津 2010, p. 212.
- ^ 滝澤 2017, p. 381.
- ^ 海老沢有道『キリシタンの弾圧と抵抗』雄山閣出版、1981年、182頁。全国書誌番号:81029072。
参考文献
[編集]- 滝澤修身「ジョルジ結城弥平次」『キリシタン大名―布教・政策・信仰の実相―』五野井隆史 監修、宮帯出版社、2017年。ISBN 978-4-8016-0018-8。
- 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』吉川弘文館、2010年、285頁。ISBN 978-4-642-01457-1。
- 鳥津亮二『小西行長―「抹殺」されたキリシタン大名の実像―』八木書店〈史料で読む戦国史 2〉、2010年。ISBN 978-4-8406-2049-9。
- 松田毅一『近世初期日本関係南蛮史料の研究』風間書房、1967年。全国書誌番号:67001027。