結城政朝 (白河氏)
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時代 | 室町時代後期 - 戦国時代 |
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生誕 | 永享12年(1440年)? |
死没 | 永正7年(1510年)? |
別名 | 義永 |
官位 | 弾正少弼 |
氏族 | 白河結城氏 |
父母 |
父∶結城直朝 母∶不明 |
妻 |
正室∶小峰直親娘 後室∶蘆名氏 |
子 | 顕頼、那須資永、五郎 |
結城 政朝(ゆうき まさとも)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。白河結城氏7代当主。
略歴
[編集]白河結城氏6代当主・結城直朝の嫡男として誕生。父と共に白河結城氏の最盛期を築き上げ、南奥州や北関東に権威を振るった。室に小峰直親娘、後室に蘆名氏。
文明2年(1470年)に相馬氏、文明6年(1474年)に岩城氏と同盟し、文明16年(1484年)には石川氏の一族を取り込んだ。長享3年/延徳元年(1489年)には伊達氏・蘆名氏・小山氏・下総結城氏と連合して佐竹氏と争った。
永正7年(1510年)、有力支族の小峰氏と対立して、小峰氏8代当主・小峰朝脩を自害させ[注釈 1]、その後朝脩の父・直常(政重)に攻められ那須へ逃亡し、消息不明となった(永正の変)。この内紛により、白河氏の勢力は衰退することになる。政朝は直常の放った刺客によって殺害されたとも言われている。
文明13年(1481年)、白河結城氏の栄華を讃えて白河城下の鹿島神社で一日一万句の連歌会を催した。この連歌会は「宗祇戻し」の逸話がある。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ ただし、近年の説では小峰朝脩の自害は事実ではなく、反対に小峰朝脩によって白河結城氏は乗っ取られて朝脩の子と推定される義綱(従来の系譜では顕頼の子とされる)が当主として擁立されたとする有力説もある。
出典
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