綱島十八騎
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綱島十八騎(つなしまじゅうはっき)は、神奈川県横浜市港北区綱島付近を知行したと伝えられる18名の武士のこと。安土桃山時代~江戸時代初期の徳川家家臣・近藤正次を頭目としたとされる。
概要
[編集]横浜市北部、鶴見川下流の平野部に位置する綱島(武蔵国橘樹郡)は、古くは綱島三郎信照なる人物の采邑(領地)であったと伝えられる。戦国時代後半には小田原北条氏の支配地域となったが、1590年(天正18年)に北条氏が滅び、徳川家康が江戸に入るとその御料所(直轄領)となった。
伝承での十八騎
[編集]綱島十八騎の名は、『新編武蔵風土記稿』や、綱島の古刹・綱島山長福寺の由緒、綱島村総鎮守・諏訪神社の由緒等に登場するが、それぞれ少しずつ伝える内容が異なっている。
- 『新編武蔵風土記稿』:『巻之六十六、橘樹郡之九、南綱島村』の項に記載。北条氏滅亡の頃、近藤正次が当地に所領300石を与えられ、綱島十八騎の頭となったという。近藤以外の17人の名は不明。「此等ノ人々ハ、北条家滅亡ノノチ、東照宮二属シ奉リ甲州侍武川衆ナドトイへルモノノ如ク、綱島ニテ采邑ヲ賜リシユヘ、カク唱ルナルベシ」としている。また、近藤正次が長福寺を開基したと伝える。[1]
- 長福寺開基の由緒:綱島十八騎を戦国時代の西国の落武者であると伝える。その中の一人、児島賀典(改姓し佐々木姓となる)が1592年(文禄元年)に出家し、同寺を開山したという(山門前の石碑より)。
- 諏訪神社創建の由緒:綱島十八騎を近藤正次を首領とする甲州武田家の家臣団と伝える。天正(1573年~1593年)の頃、綱島を領有したという。武田信玄と同じく信濃の諏訪大社を篤く信仰し、信濃から綱島へ下る際、諏訪大社境内の桜の一枝を折り、馬の鞭にして馳せ参じた。綱島の小高い丘で諏訪大社を遥拝し、武運長久を祈り「もし験しあるならば根付かせよ」とこの桜の鞭を挿木したところ、根が生え大樹となったという。この験しにより綱島十八騎は小田原征伐、関ヶ原の戦いで武功を上げ、1605年(慶長10年)ころ、諏訪明神を勧請し諏訪神社を創建したと言う(諏訪神社境内の由緒書より)。
史実での十八騎
[編集]江戸後期の1799年(寛政11年)~1812年(文化9年)に堀田正敦が編纂した『寛政重修諸家譜』掲載の近藤正次の項(第百九十七冊)によると、彼は1590年(天正18年)の北条家滅亡後、家康の関東移封に従って武蔵国橘樹郡に赴き、綱島に300石を与えられ「十八騎の頭となる」と記載されている。その後九戸政実の乱や関ヶ原の戦い、大坂の陣にも従軍し武功をあげていることから、これらの事跡が上述のような現在の綱島地域に伝わる「綱島十八騎」伝承のベースとなった可能性がある。