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緋縅力弥 (2代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

緋縅 力弥(ひおどし りきや、1799年寛政11年〉 - 1836年9月25日天保7年8月5日〉)は、玉垣部屋に所属した元力士

本名は森脇 幸太郎初代緋縅力弥養子縁組した。身長176cm、体重148kgの太鼓腹が持ち味だった。京都府(旧山城国)出身。

最高位は西大関平戸藩のお抱え力士だった。

1817年10月錦幸太郎の名で初土俵。1823年2月十両昇進。10月場所で、養父の四股名を引き継いで2代目・緋縅力弥となった。1824年1月新入幕。入幕2場所目の1824年10月場所では大関源氏山吉太夫,関脇小柳(後の手柄山繁右エ門)を破って8勝1敗1休の優勝次点の好成績[1]を残した。1828年は飛躍の年となり、3月場所では7勝1敗2休,10月場所では8勝2休の成績で2場所連続優勝相当成績を挙げた。しかし、稲妻雷五郎(後の第7代横綱)が大関にいたため、中々関脇から昇進できず9場所も留め置かれるなど、番付運に恵まれなかった。1833年10月場所、漸く大関に昇進。しかし大関時代は怪我で出場することができなかった。後に関脇に戻って現役生活を続けていたが、1836年2月場所終了後の8月5日、現役中のまま38歳で死去した。

阿武松緑之助(第6代横綱)、稲妻と並んで「文政角界の三傑」と謳われた名力士だった[2]。 うれいを持った童顔の残る美男子で、彼の錦絵は飛ぶように売れたという。

成績

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  • 通算在位:35場所
  • 幕内在位:20場所
  • 幕内成績:88勝29敗52休5分11預1無
  • 大関在位:2場所
  • 大関成績:0勝0敗18休
  • 優勝相当成績:2回(1828年3月、10月場所)

場所別成績

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緋縅 力弥
春場所 冬場所
1817年 x x
1818年 西序ノ口5枚目
 
西序ノ口5枚目
 
1819年 西序二段20枚目
 
西序二段17枚目
 
1820年 西序二段9枚目
 
西序二段3枚目
 
1821年 西三段目23枚目
 
西三段目16枚目
 
1822年 西三段目18枚目
 
西三段目筆頭
 
1823年 西幕下25枚目
 
西幕下17枚目
 
1824年 西幕下11枚目
 
西幕下5枚目
3–3
1預
 
1825年 西前頭8枚目
2–3–3
2預
 
西前頭3枚目
8–1–1 
1826年 西前頭3枚目
4–1–2
3預
 
西前頭2枚目
4–4–2 
1827年 西前頭2枚目
2–2–2
1預
 
番付非掲載
不出場
1828年 西前頭3枚目
7–1–2[3] 
西関脇
8–0–2[3] 
1829年 西関脇
5–1–1 
西関脇
5–0–2
2預1無
 
1830年 西関脇
7–1–2 
西関脇
6–2–2 
1831年 西関脇
5–1–2
1分1預
 
西関脇
5–3 
1832年 x 西関脇
4–3–3 
1833年 西関脇
6–1–1
1分1預
 
西大関
0–0–8 
1834年 西大関
0–0–10 
番付非掲載
不出場
1835年 西張出関脇
2–2–5
1預
 
西関脇
4–3–1
2分
 
1836年 西関脇
引退
4–0–1
1分[4]
x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)
  • 当時は十両の地位が存在せず、幕内のすぐ下が幕下であった。番付表の上から二段目であるため、現代ではこの当時の幕下は、十両創設後現代までの十両・幕下と区別して二段目とも呼ぶ。
  • 二段目11枚目以下の地位は小島貞二コレクションの番付実物画像による。

改名歴

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  • 錦 幸太郎 - 1817年10月場所 - 1824年1月場所
  • 緋縅 力彌 - 1824年10月場所 - 1829年2月場所
  • 緋縅 力弥 - 1829年10月場所
  • 緋縅 力彌 - 1830年3月場所 - 1836年2月場所

脚注

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  1. ^ 稲妻も8勝1敗1休の同点だったが、当時は番付上位者優勝制度により番付上位だった稲妻(当場所小結、緋縅は前頭3枚目)を優勝力士扱いとする。
  2. ^ 大関伝 106人目~118人目 - ウェイバックマシン(2016年3月4日アーカイブ分)
  3. ^ a b 優勝相当成績。
  4. ^ 場所後8月現役中に死去。

関連項目

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外部リンク

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