緑野屯倉
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緑野屯倉(みどの の みやけ)は、古墳時代の上野国にあった屯倉。
概要
[編集]『日本書紀』巻第十八、安閑天皇2年(535年)5月には、天皇が数多くの屯倉を設置したとあり、その中の1つとして名前があげられているのが上毛野国の緑野屯倉である[1]。
奈良時代の多胡碑に、上野国緑野郡他2郡から多胡郡を分けたとあり、『和名類聚抄』にも緑野郡(群馬県多野郡西部・藤岡市)の名が現れている。屯倉は現在の群馬県藤岡市緑野・倉屋敷付近に置かれたものと推測され、当時上毛野君氏の勢力の中心地であった高崎市周辺の南東約10キロメートルの地にあたる。これは前年の武蔵国造の乱で敗北した上毛野君氏が、大和政権に屈服した結果として設置されたものであると想定され、これにより、彼らも部民制の中に組み込まれていったのである。
脚注
[編集]- ^ 『日本書紀』安閑天皇2年5月9日条
参考文献
[編集]- 『日本書紀』(三)、岩波文庫、1994年
- 『日本書紀』全現代語訳(上)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1988年
- 『日本の古代6 王権をめぐる争い』、岸俊男:編、中公文庫、1996年より「国造と屯倉」文:鎌田元一
- 『蘇我氏と馬飼集団の謎』祥伝社新書、平林章仁:著、2017年