繆大亨
表示
姓名 | 繆大亨 |
---|---|
時代 | 元代 |
生没年 | 生年不詳 - 至正23年(1363年) |
字・別名 | - |
本貫・出身地 | 定遠(現在の安徽省定遠県) |
職官 | 元帥→同僉枢密院事 |
爵位 | - |
諡号 | - |
陣営・所属 | 元→朱元璋 |
家族・一族 | 叔父:繆貞 |
繆 大亨(ぼく たいきょう/びゅう たいきょう、? - 1363年)は、元末の軍人。定遠(現在の安徽省定遠県)の人。朱元璋に仕えて、彼の勢力拡大に貢献した。
生涯
[編集]はじめは元の義兵軍を率いていた。
至正14年(1354年)7月、濠州を攻めていたが勝てず、元軍は敗れた。張知院と共に2万の兵で横澗山に籠った。朱元璋は夜襲で横澗山を攻めることを考えた。朱元璋の命を受けた花雲の夜襲により、繆大亨は息子と共に敗走したが、散り散りになった兵を集め、再編して迎撃の態勢をとった。朱元璋は説得のために叔父の繆貞を使者に送った。繆貞の説得に繆大亨は朱元璋に降伏した[1]。
数々の戦いに参加し、多くの功績を上げて、元帥に抜擢された。
至正17年(1357年)9月、揚州を攻略し、青軍元帥の張明鑒を降した。戦いの前、繆大亨は朱元璋に「賊は飢餓に困り、食糧の掠奪に奔れば、これを治めるのは難しくなります。彼らの勇猛さを用いて、我が軍に加えるべきです」と言った。これを容れた朱元璋は繆大亨に速やかに攻めるよう命じた。張明鑒を降し、数万の兵、軍馬2千余を得た。その後、張明鑒の将校の妻子を応天府に悉く送った。
至正20年(1360年)3月、淮海翼元帥府が江南分枢密院に改められ、繆大亨は同僉枢密院事となり、揚州・鎮江を統括した。善政を行い、民衆はこれを喜んだ。
至正23年(1363年)に亡くなった。
人物・逸話
[編集]- 治世の才能を持ち、寛大で温厚な性格だった。
- 率いる軍は厳粛で、掠奪や暴行を厳しく禁じていたので、民衆は大いに喜び、信頼を得ていた。
- 朱元璋は鎮江を過ぎると嘆じて「繆将軍は生前、行いが正しくまっすぐで、間違いを犯すことはなかった。早くに亡くなったことが惜しまれる」と言って、繆大亨の墓を祭らせた。
脚注
[編集]- ^ 『明史』第1 本紀第1 太祖1によれば、2万の兵を得たと記されている。
参考文献
[編集]- 『明史』巻1 本紀第1 太祖1
- 『明史』巻134 列伝第22 繆大亨
- 『明史紀事本末』巻1 太祖起兵
- 『明史紀事本末』巻2 平定東南
- 『続資治通鑑』巻第211
- 『続資治通鑑』巻第214
- 『続資治通鑑』巻第215