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織田広良

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
織田與康から転送)
 
織田広良
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 永禄5年5月3日1562年6月4日[1]?
別名 與康、信益、通称:源三郎、勘解由左衛門
墓所 愛知県名古屋市西区中小田井の善光寺別院願王寺
主君 織田信長
氏族 織田弾正忠家(犬山織田氏)
父母 父:織田信康
兄弟 信清広良信正[2]織田信張正室
信家(宗円)、(?)、織田與一
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織田 広良(おだ ひろよし)は、戦国時代武将。別名は織田與康信益通称は源三郎、勘解由左衛門。織田信長従兄弟にあたる。美濃国十九条城主。

従来では津田信益と混同されてきたが、別人とされる。また勘解由左衛門と名乗ったため、「織田伊勢守家」の養子という説がある。

略歴

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織田信康の子として誕生した。

織田信秀死亡後は犬山城で独自の勢力を保っていたが、尾張国上四郡の守護代への対抗のため兄の信清と共に織田信長の下に付いた。浮野の戦い岩倉城攻略戦で信長を支援した。永禄5年(1562年5月、美濃攻めのため、信長は佐久間信盛を大将に任じ、砦の築城を始めた。

広良は前線である十九条城の守将であったが、大雨で川が氾濫した隙をついて美濃の斎藤軍は十九条城の攻撃を始めた。信長は荒れ狂う川を渡りきり、援軍として駆けつけた。織田軍来訪を知った斎藤軍は十四条(現在の岐阜県本巣市十四条)で織田軍を迎え撃った(十四条の戦い)。広良は先陣として活躍したが、斎藤方の野々村正成に討ち取られた、とされる。

墓所は愛知県名古屋市西区中小田井の善光寺別院願王寺。


通説では信長の妹とされるお市の方は、広良の娘つまり信長の従弟の娘であるという記述が『織田系図』にある。

脚注

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  1. ^ 『尾張群書系図部集』上 222頁
  2. ^ 『蜂須賀家家臣成立書并系図』徳島大学付属図書館蔵