羅振邦
羅振邦 | |
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『省政彙覧』第一輯 吉林省篇(1935年) | |
プロフィール | |
出生: | 1895年(光緒21年)6月[1][2][3] |
死去: | 没年不詳 |
出身地: | 清盛京将軍管轄区海竜県 [1][2][3] |
職業: | 官僚・外交官 |
各種表記 | |
繁体字: | 羅振邦 |
簡体字: | 罗振邦 |
拼音: | Luó Zhènbāng |
ラテン字: | Lo Chen-pang |
和名表記: | ら しんほう/ら しんぽう |
発音転記: | ロー・チェンパン(ルオ・ジェンバン) |
羅 振邦(ら しんほう/ら しんぽう、1895年6月 – 没年不詳)は、中華民国・満洲国の官僚・外交官。なお名前は似ているが、満洲国監察院長の羅振玉(本籍:浙江省上虞県)とは何らの親族関係も無い。
事績
[編集]1904年(光緒30年)に私塾で学び、1908年(光緒34年)に海竜県立小学校、1911年(宣統3年)に海竜県中学校へそれぞれ入学した。1915年(民国4年)に中学校を卒業し、海竜県朝陽鎮小学校の教員となる。1917年(民国6年)、海竜県の手配で日本へ留学し、東亜高等予備学校に入学する。翌1918年(民国7年/大正7年)に東京高等師範学校に入学、1923年(民国12年/大正12年)に卒業した[4]。
帰国後は奉天省教育長省視学、熱河都統署教育庁長、奉天交渉総署政務処長、奉海鉄路公司総務署長、東三省交渉総署政務処長を歴任している[2]。なお、1927年(民国16年)春頃に、闞朝璽と共に日本へ実業視察に赴いている[5]。1930年(民国19年)、吉長吉敦鉄路局秘書兼稽核科長、1931年(民国20年)、瀋海鉄路保安維持会総務処長となった[3]。
満洲国建国直後の1932年(大同元年)、立法院記録処長となり、更に吉林省公署総務庁秘書処長に移った。1934年(康徳元年)、満洲国赴日修聘特使随員として来日し、同年、吉林省公署実業庁長に任命された。1937年(康徳4年)7月、経済部商務司長となり、1939年(康徳6年)7月、専売総局長に転じた。1940年(康徳7年)4月6日、駐伊特命全権公使に任命される[6]。帰国後の1945年(康徳12年)4月16日、郵政総局長に任命された[7]。
満洲国崩壊後、羅振邦は中華人民共和国当局に逮捕され、撫順戦犯管理所に収監された。時期は不明だが、獄死することなく釈放されたという[8]。
釈放後の羅振邦の行方は不詳となっている。
脚注
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 「羅振邦筆供(1954年10月27日)」中央档案館編『偽満洲国的統治与内幕―偽満官員供述』中華書局、2000年。ISBN 7-101-01888-2。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第十四版 外地・満支・海外篇』帝国秘密探偵社、1943年。
- 満蒙資料協会編『満洲紳士録 第三版』満蒙資料協会、1940年。
- 『満洲国名士録 康徳元年版』人事興信所、1934年。
- 満洲国史編纂委員会編『満洲国年表 本編』満蒙同胞援護会、1956年。
- 汪恩郡・王鳳琴「闞朝璽」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第10巻』中華書局、2000年。ISBN 7-101-02114-X。