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羅汝敬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

羅 汝敬(ら じょけい、1372年 - 1439年)は、明代官僚。名は簡、は汝敬で、字をもって通称された。は寅庵。本貫吉州吉水県

生涯

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羅復仁の孫にあたる。経学を次兄の羅汝弘に教授された。1404年永楽2年)、進士に及第し、翰林院庶吉士に任じられた。文淵閣に就学したが、書を音読して永楽帝の意に逆らい、その日のうちに一兵卒に落とされて江南に派遣された。数日後に召還された。1407年(永楽5年)、翰林院修撰となった[1]1420年(永楽18年)、翰林院侍講となった[2]。『高廟実録』の編纂にあたった。1425年洪熙元年)、時政十五事を上言して、洪熙帝の意に逆らい、獄に下された。雲南道監察御史となった。宣徳帝の初年、帝が天寿山の長陵と献陵に行幸して、降将とともに山谷の間で狩猟したことから、汝敬は大学士の楊士奇に帝を諫めるよう求めた。

ほどなく汝敬は工部右侍郎に抜擢された。1427年宣徳2年)、ベトナム後陳朝に派遣され、陳暠を安南国王に封じた。1428年(宣徳3年)、帰国した。黎利が陳暠の死去を報告すると、汝敬は再びベトナムに派遣され、黎利を安南国王に封じた。黎利が主君の喪中にありながら、筵を張って女楽を催したことから、汝敬は黎利を叱責し、黎利はこれに陳謝した。汝敬は帰国すると、両浙の水運を監督した。1431年(宣徳6年)、陝西屯田を監督した[3]1434年(宣徳9年)[4]、供応を受けて罪に問われ、事官に左遷された。1435年(宣徳10年)、正統帝が即位すると、大赦があったが、汝敬は詔を勝手に解釈して復職し、逮捕されて獄に繋がれた。陝西での功労を酌量して死刑を免除され、一兵卒として辺境に流された。ほどなく工部右侍郎の任に復帰した。1436年正統元年)[5]、塞北で糧食輸送の監督にあたった。紅城子で敵に遭遇し、流れ矢が当たって落馬した。1438年(正統3年)、病を理由に辞職して帰郷した。1439年(正統4年)10月、死去した[6]。享年は68。

脚注

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  1. ^ 談遷国榷』巻14
  2. ^ 『国榷』巻17
  3. ^ 明史』宣宗紀
  4. ^ 『国榷』巻22
  5. ^ 『国榷』巻23
  6. ^ 『国榷』巻24

参考文献

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  • 明史』巻137 列伝第25
  • 故通議大夫工部右侍郎羅公墓碑銘