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美尾浩子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
美尾 浩子
誕生 1936年
日本の旗 静岡県富士市
死没 1991年11月15日
日本の旗 静岡県静岡市
職業 言語学者
随筆家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
民族 大和民族
教育 文学士東京教育大学
最終学歴 東京教育大学文学部卒業
主題 論説
評論
文学活動 ウーマン・リブ
代表作 『六枚の肖像画——近代を拓いた静岡の女たち』(1982年)
『マッチャ・ウーマン——ふつうの女で終わりたくないあなたへ』(1986年)
『いぶし銀の女たち』(1990年)
デビュー作 『男無用の子育て』(1979年)
活動期間 1958年 - 1991年
所属静岡女子短期大学→)
静岡女子大学→)
静岡県立大学
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美尾 浩子(みお ひろこ、1936年 - 1991年11月15日)は、日本言語学者言語学婦人問題)・随筆家静岡女子短期大学英文科勤務を経て、静岡女子大学文学部教授静岡県立大学国際関係学部教授、静岡県立大学国際関係学部学部長(第2代)を歴任。

概要

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静岡県出身の随筆家であり[1]言語学などを専攻する言語学者でもある[2]静岡女子短期大学[3]静岡女子大学[1][3][4]静岡県立大学[3][4]、といった教育・研究機関で教鞭を執り、後進の育成に努めた。静岡県立大学では、評議員国際関係学部学部長など要職も務めた[4]。女性の権利や地位に関する評論も展開し[2]、『男無用の子育て』や『マッチャ・ウーマン——ふつうの女で終わりたくないあなたへ』と題した書籍を上梓した[5][6]

来歴

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生い立ち

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1936年(昭和11年)[1][2]、静岡県富士市に生まれた[1][4]。静岡県により設置・運営される静岡女子短期大学に進学し[3][† 1]英文科にて学んだ。さらに、が設置・運営する東京教育大学に進学し[1][† 2]文学部にて学んだ[1]。東京教育大学を卒業し[1]文学士称号を取得した[† 3]

言語学者として

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母校である静岡女子短期大学に採用され[3]、1958年(昭和33年)4月に英文科の助手に就任した[3]

1967年(昭和42年)、同じく静岡県により設置・運営される静岡女子大学にて講師に就任した[4][† 4]助教授を経て[3][4]、最終的に静岡女子大学の教授にまで昇任した[1][4]

その後、静岡女子大学は、静岡薬科大学や静岡女子短期大学と統合されることになり、静岡県により1987年(昭和62年)に静岡県立大学が設置された[† 5]。それに伴い、同年に国際関係学部の教授として着任した[4]。国際関係学部においては、主として国際言語文化学科の講義を担当した[7]。さらに、学内の要職も歴任した[4]。1987年(昭和62年)より静岡県立大学の評議員を兼務していた[4]。その後、高橋徹の後任として[7]、1991年(平成3年)4月に国際関係学部の学部長に就任した[7]。静岡県立大学で史上初めての女性学部長であった[4]

しかし、1991年(平成3年)5月の健康診断で異常が見つかり[3][8]肺癌だったため同年6月26日に肺の一部を切除した[8]。肺の手術自体は成功したものの[8]、他の臓器にも問題があり[8]、そちらの治療は体調が悪化し思うように進められなかったという[8]。教授および学部長として在任中のまま、1991年(平成3年)11月15日に死去した[3]。死去する前日まで大学に関する職務をこなしていたという[3]。学部長はしばらく空席となったが[7]、1992年(平成4年)1月になって後任に上野明が就いた[7]

研究・言論活動

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専門は言語学であり[2]、婦人問題についても論じた[2][† 6]。随筆家として知られていたこともあり[1]、多様な言論活動を展開した。いわゆるウーマン・リブと呼ばれた女性解放運動にも参画しており、『男無用の子育て』といった書籍も著している[5]。グレース・リヒテンシュタインの『Machisma –– women and daring』を翻訳し『マッチャ・ウーマン——ふつうの女で終わりたくないあなたへ』として上梓し[6]日本に「マチズマ」や「マチズモ」の概念を紹介した[6]。また、静岡県婦人研究者の会では代表を務めた[4]。大学婦人協会の静岡県支部では支部長に就任した[4]。さらに、静岡県女流美術協会では会長を務めていた[4]

人物

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コンタクトレンズ
1958年(昭和33年)に静岡女子短期大学に採用されたが[3]、当時としては珍しいコンタクトレンズを愛用していた[3]。そのため、赴任前から学内で「今度来られる美尾さんは、銀座の何々という美容室で髪を手入れし、眼にはコンタクト・レンズというものをつけている」[3]という噂が飛び交っていたという。
出身校
母校について「私自身は、卒業する時点での母校に精神的支えを見出しています。卒業後に母校がどのように変容しても、それはそれと冷静に受け止めています」[9]と述べている。自身が学生として通っていた静岡女子短期大学、および、東京教育大学は、どちらも閉校となっているが「母校がなくなってしまったと、後ろ向きに考えることは好みません。母校は卒業生ひとりひとりの心の中に生きていると信じます」[9]としている。

交友

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高嶋健一
教育学者高嶋健一は、静岡女子短期大学、静岡女子大学で美尾と同僚であったため[3]家族ぐるみで交流があった[3]
渡辺英彦
静岡県富士宮市出身のプロデューサーである渡辺英彦は、静岡県静岡市静岡聖光学院中学校に進学した際、美尾の邸宅に下宿していた[10]。その際、美尾の影響を受け[10]、渡辺は言語学に関心を持ったという[10]。のちに渡辺は国際基督教大学に進学しているが[10]、これも美尾の助言によるものだという[10]

略歴

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著作

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単著

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  • 美尾浩子著『男無用の子育て』文和書房、1979年。
  • 美尾浩子著『日本語の発想から英文構成へ』文和書房、1981年。
  • 美尾浩子著『六枚の肖像画——近代を拓いた静岡の女たち』静岡新聞社、1982年。ISBN 4783810214
  • 美尾浩子著『いぶし銀の女たち』静岡県出版文化会、1990年。

共著

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  • 有泉学宙ほか著、静岡県立大学英米文化研究室編『言語文化研究の方法——英米の言語と文芸』静岡県立大学英米文化研究室、1989年。
  • 榊正子著、静岡県立大学英米文化研究室編『多様化する言語文化研究』静岡県立大学英米文化研究室、1990年。

編纂

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翻訳

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脚注

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註釈

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  1. ^ 静岡女子短期大学は、静岡薬科大学静岡女子大学と統合され、1987年に静岡県立大学が設置された。
  2. ^ 東京教育大学を母体として、1973年に筑波大学が設置された。
  3. ^ 文学士称号は、1991年7月1日以降の学士(文学)学位に相当する。
  4. ^ 静岡女子大学は、静岡薬科大学静岡女子短期大学と統合され、1987年に静岡県立大学が設置された。
  5. ^ 静岡県立大学は、2007年に静岡県から静岡県公立大学法人に移管された。
  6. ^ 「婦人問題」という語は近年ではあまり用いられず、代わって「女性に関する社会的、政治的、経済的な諸問題」や「女性問題」といった表現が用いられる傾向にあるが、当時の表記を尊重し「婦人問題」と表記した。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j 美尾浩子『六枚の肖像画——近代を拓いた静岡の女たち』静岡新聞社、1982年、奥付。
  2. ^ a b c d e 「婦人問題を通信講座で学ぶ」静岡県県民生活局婦人課編集『ねっとわあく』15号、静岡県県民生活局婦人課、1989年10月、10頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 高嶋健一「悼さようなら美尾浩子さん」『おおとり会だより』おおとり会同窓会事務局、1992年4月22日、1頁。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 「美尾浩子さん略歴」『おおとり会だより』おおとり会同窓会事務局、1992年4月22日、2頁。
  5. ^ a b 美尾浩子『男無用の子育て』文和書房、1979年。
  6. ^ a b c グレース・リクテンスタイン著、美尾浩子訳『マッチャ・ウーマン——ふつうの女で終わりたくないあなたへ』黎明書房、1986年。
  7. ^ a b c d e f 「歴代学部長」静岡県立大学創立30周年記念事業実行委員会編集『静岡県立大学創立30周年記念誌』静岡県立大学、2017年9月、50頁。
  8. ^ a b c d e 佐々木清子「美尾浩子さんとの惜別の日」『おおとり会だより』おおとり会同窓会事務局、1992年4月22日、2頁。
  9. ^ a b 美尾浩子「静岡女子大学閉学から一年に思う」『おおとり会だより』おおとり会同窓会事務局、1991年4月15日、1頁。
  10. ^ a b c d e 会長「熱願冷諦」『富士宮焼きそば学会 会長ひとりごと: 熱願冷諦』富士宮焼きそば学会、2006年11月1日。

関連項目

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外部リンク

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学職
先代
高橋徹
静岡県立大学
国際関係学部学部長

第2代:1991年
次代
上野明