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羽倉鋼三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

羽倉 鋼三郎(はぐら こうさぶろう、生年不詳 - 慶応4年8月19日1868年10月4日[1])は、江戸時代末期(幕末)の武士。

経歴

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林靏梁(幕臣・儒学者・新徴組頭)の次男。羽倉簡堂の養子となる[1]。慶応2年(1866年)6月、京都見廻組与力となる[1]。その他、巡邏局隊長などを務める。幕府陸軍創設にも関わった。

戊辰戦争に際して彰義隊に加盟。渋沢成一郎天野八郎の路線対立には双方から距離をとり、渋沢が上野を出た際に彰義隊を離脱、会津藩に合流した。

桑折などの陸奥国の幕領の代官事務を、輪王寺宮(後の北白川宮能久親王)の旨によって進めたが、官軍側についた前橋藩兵と沼田で遭遇し、戦死した[1]

脚注

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  1. ^ a b c d 『幕末維新大人名事典』下巻(新人物往来社、2010年)p.285-286

参考文献

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  • 『真説 上野彰義隊』中央公論社〈中公文庫〉、1998年12月18日。ISBN 4-12-203309-8