羽倉鋼三郎
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羽倉 鋼三郎(はぐら こうさぶろう、生年不詳 - 慶応4年8月19日(1868年10月4日)[1])は、江戸時代末期(幕末)の武士。
経歴
[編集]林靏梁(幕臣・儒学者・新徴組頭)の次男。羽倉簡堂の養子となる[1]。慶応2年(1866年)6月、京都見廻組与力となる[1]。その他、巡邏局隊長などを務める。幕府陸軍創設にも関わった。
戊辰戦争に際して彰義隊に加盟。渋沢成一郎と天野八郎の路線対立には双方から距離をとり、渋沢が上野を出た際に彰義隊を離脱、会津藩に合流した。
桑折・塙などの陸奥国の幕領の代官事務を、輪王寺宮(後の北白川宮能久親王)の旨によって進めたが、官軍側についた前橋藩兵と沼田で遭遇し、戦死した[1]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『真説 上野彰義隊』中央公論社〈中公文庫〉、1998年12月18日。ISBN 4-12-203309-8。