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翁世資

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

翁 世資(おう せいし、永楽13年(1415年)- 成化19年6月7日1483年7月11日))は、明代官僚は資甫。本貫興化府莆田県

生涯

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翰林検討・掌国子助教事の翁瑛の子として生まれた。正統7年(1442年)、進士に及第した。戸部主事に任じられた。景泰年間、戸部郎中に進んだ。天順元年(1457年)、工部右侍郎に転じた。天順4年(1460年)、英宗宦官に命じて蘇州松江杭州嘉興湖州に赴かせ、織彩幣7000匹を増産させようとした。世資は江南で洪水が発生し、民衆が生活に苦しんでいたことから、これを半減させるよう意見した。工部尚書の趙栄や工部左侍郎の霍瑄はこれに難色を示していたが、世資は一身で責任を負うといって、連署して諫めた。英宗は怒り、議論を主導した者が誰か追及した。世資は英宗の命により獄に下され、衡州府知府に左遷された。

成化元年(1465年)、世資は江西左布政使に抜擢された。成化2年(1466年)、事件に連座して法吏に下された。ほどなく潔白を証明されて無罪となり、布政使に復職した[1]広東で反乱が起こり、討伐軍のために江西から食糧を輸送することとなり、10万人の動員が見積もられた。世資は銀を広東に送って現地で食糧を購入するよう意見して、民衆の不満を抑えた。成化5年(1469年)、右副都御史として山東を巡撫した。成化6年(1470年)秋、飢饉が起こると、倉を開いて食糧50万石あまりを振給し、流亡していた162万人の生活を安定させた。成化8年(1472年)、戸部右侍郎として召し出され、戸部尚書の楊鼎を補佐した。成化13年(1477年)、薛遠に代わって総督倉場をつとめた。成化17年(1481年)2月、戸部尚書に進んだ。成化19年(1483年)2月、太子少保の位を加えられ、致仕した[2]。6月戊辰、死去した[3]。享年は69。太子少傅の位を追贈された。著書に『冰崖集』[4]があった。

脚注

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  1. ^ 談遷国榷』巻34
  2. ^ 明史』七卿年表一
  3. ^ 『国榷』巻39
  4. ^ 黄虞稷『千頃堂書目』巻19

参考文献

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  • 『明史』巻157 列伝第45
  • 李清馥『閩中理学淵源考』巻52