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翁孝文

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
おきな たかふみ

翁 孝文
生誕 1904年3月2日
日本の旗 日本広島県神石郡豊松村
(現:神石高原町
死没 1980年5月9日(76歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身校 旧制高梁中学
(現・岡山県立高梁高等学校
名古屋高等商業学校
(現・名古屋大学経済学部
職業 実業家
肩書き 倉敷紡績取締役
倉敷国際ホテル社長
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翁 孝文(おきな たかふみ、1904年明治37年)3月2日[1] - 1980年昭和55年)5月9日[2])は、日本の実業家倉敷紡績取締役を経て倉敷国際ホテル社長を務めた。広島県神石高原町出身。

経歴

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生い立ち

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広島県神石郡豊松村[3](現:神石高原町)の社家である翁家に生まれる[4]1919年大正8年)地元に近い旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)に進み、同期に石川達三金澤覚太郎日野西義輝がいた。1924年(大正13年)卒業後、名古屋高等商業学校(現:名古屋大学経済学部)へ進学[5]1927年(昭和2年)同校を23歳で卒業した[6]

学校卒業後

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卒業後、同年に倉敷紡績へ入社。総務畑を歩み、1937年(昭和12年)に当時の倉敷紡績の大原孫三郎の社長秘書課長となった。この時の同社役員には、高梁中学の先輩である社長の片腕であった神社柳吉(後の社長、当時は常務)がいた影響が大きい[7]。その後、第二次世界大戦後に監査役、総務部長を経て、倉敷紡績の常務取締役となった。同職を1962年(昭和37年)まで務めた。大原社会問題研究所の監査役等も歴任している。

常務取締役を退任後、大原総一郎が倉敷国際ホテルを建設するに伴い、同ホテルの社長には、腹心の翁が就任した。倉敷国際ホテルは、倉敷美観地区にあり、大原美術館に隣接している。1963年(昭和38年)に竣工し、1963年12月に開業している。同ホテルの社長を1980年(昭和55年)亡くなるまで務めた[8]

1980年(昭和55年)5月9日、脳血栓のため76歳で死去[9]

エピソード

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倉敷紡績取締役のおり、1960年(昭和35年)に旧制高梁中学時代の同級生である金澤覚太郎から、文藝春秋の同級生交歓企画のために、旧友と集まり談笑するシーンがおさめられている。それ以前から、金澤主催の高梁中学同窓会の「梁川会」に参加しており、日野西義輝の弟である村井資長早稲田大学総長に就任したときも、同会で祝賀会を行っている[10]。この中で、同級生の金澤が翁への印象として、「当時、寄宿舎に下宿していた翁は、その頃から達筆で文章が上手かった」と語っている[10]

脚注

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  1. ^ 中国年鑑 昭和55年版 別冊, 中国新聞社, 1979
  2. ^ 日外アソシエーツ現代人物事典
  3. ^ 財界お国めぐり 関西篇, 産業経済新聞社経済部 編 産業経済新聞社, 1957年
  4. ^ 歴史を紀行する, 司馬遼太郎 著, 文芸春秋, 1969年
  5. ^ 名古屋高等商業学校一覧 自昭和8年至昭和9年 p.131, 翁孝文(廣島)
  6. ^ 東邦経済 12(12), 東邦経済社 [編] (東邦経済社, 1951-12)
  7. ^ 日本人名選 昭和13年,大阪毎日新聞社, 東京日日新聞社 編,大阪毎日新聞社 昭和12年
  8. ^ 岡山県関係新聞記事索引 昭和50年, 岡山県総合文化センター 編 岡山県総合文化センター, 1980.3
  9. ^ 岡山県関係新聞記事索引 昭和55年, 岡山県総合文化センター 編 岡山県総合文化センター, 1983.3
  10. ^ a b 佐藤勇「なんと一世紀 この伝統と誇り」高梁高校同窓会 東京支部だより 第29号 p.11-13, 該当箇所は11頁(『文藝春秋』1960年11月号「同級生交歓」からの転載)