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胤舜

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

胤舜(いんしゅん、天正17年〈1589年〉 - 正保5年1月12日1648年2月5日〉)は、江戸時代前期の槍術家奈良興福寺の子院・宝蔵院の院主。権律師禅栄房胤舜[1]覚禅房法印胤栄の弟子[2]

生涯

山城国郷士の出身で、俗姓は満田氏[3][注釈 1]

先代・胤栄は十文字(鎌槍)を使う[5]宝蔵院流槍術を創始したが、僧でありながら武事を業とするのは本意ではないとして、すべての武具を高弟の中村尚政に譲り、慶長12年(1607年)に死去した[6]。その跡を継いだ胤舜は胤栄により武芸を習うことを禁じられていたが、宝蔵院は釈氏遺経でなく胤栄の槍術により知られる寺であり、自身も槍術を継ぐべきであると考え、胤栄の門弟だった奥蔵院という僧から学び、その極みに至ったという[7][注釈 2]

初代・胤栄は宝蔵院流における表9本・真位6本の合わせて15本の式目を定めていたが、胤舜はこれに加えて、裏11本の式目を制定した[9]

寛永6年(1629年)8月、および正保3年(1646年)3月、胤舜は将軍徳川家光の前で技を披露した[10]

正保5年(1648年)1月12日、60歳で死去[11]覚舜房法印胤清が跡を継いだ[1]

胤舜の門弟としては、宝蔵院流下石派の祖の下石平右衛門三正が知られている[12]

また、『古老茶話』によると、胤舜が死去した前後の寛永16241644年)末年から正保慶安年間(16441652年)頃、江戸で槍の名手と呼ばれた人物が7人いたといい、その内の4人(高田又兵衛・下石平右衛門・不破慶賀・丸橋忠弥)は宝蔵院流だった[13][14][15]

フィクションにおける登場例

小説

漫画

アニメ

ゲーム

脚注

注釈

  1. ^ 『興福寺元衆徒中御門系図』では、胤舜は胤栄の弟・中御門良胤の孫で、胤栄と同様、中御門氏の生まれとされる[4]
  2. ^ 『武術系譜略』では興蔵院に教わったとされ、奈良奉行を務めた川路聖謨の調べでは宝蔵院の中間・猪兵衛に指導されたとされる[8]

出典

  1. ^ a b 近藤 1906, pp. 86–87; 綿谷 1961, p. 316.
  2. ^ 近藤 1906, pp. 86–87; 綿谷 1961, pp. 315–316.
  3. ^ 大日本人名辞書刊行会 1926, p. 2063; 綿谷 1967, p. 281.
  4. ^ 興福寺元衆徒中御門系図”. SHIPS Image Viewer. 東京大学史料編纂所. 2023年4月29日閲覧。
  5. ^ 綿谷 1967, p. 280.
  6. ^ 近藤 1906, pp. 86–87; 大日本人名辞書刊行会 1926, p. 2062; 綿谷 1961, pp. 315, 317.
  7. ^ 近藤 1906, pp. 86–87; 大日本人名辞書刊行会 1926, p. 2063; 綿谷 1961, pp. 315–316.
  8. ^ 綿谷 1961, pp. 315–316.
  9. ^ 綿谷 1961, p. 316; 綿谷 1967, p. 281.
  10. ^ 大日本人名辞書刊行会 1926, p. 2063.
  11. ^ 近藤 1906, pp. 86–87; 大日本人名辞書刊行会 1926, p. 2063; 綿谷 1961, pp. 316–317.
  12. ^ 綿谷 1961, pp. 325, 485, 554.
  13. ^ 綿谷 1967, p. 283.
  14. ^ 戸伏太兵『武芸風俗姿』学風書院、1957年、208頁。全国書誌番号:57010659 
  15. ^ 柏崎永以 著「古老茶話」、日本随筆大成編輯部 編『日本随筆大成 巻六巻』吉川弘文館、1926年、122頁。全国書誌番号:54014319 
  16. ^ 宝蔵院胤舜”. 乙女剣武蔵. バニラシュガースタジオ. 2023年4月29日閲覧。
  17. ^ 【戦国アスカZERO】咲姫 [@zeroasuka] (2016年6月30日). "【新武将】宝蔵院胤舜". X(旧Twitter)より2023年4月29日閲覧

参考文献