能海
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能海 | |
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1886年1月20日 - 1967年1月1日 | |
能海、1924年 | |
法名 | 能海 |
尊称 |
能海上師 海公上師 |
生地 | 四川省綿竹市漢旺鎮 |
没地 | 山西省五台山碧山寺 |
宗派 |
チベット仏教 禅宗臨済宗 |
師 |
佛源 釈貫一 康薩仁波切 |
弟子 |
釈清海 釈仁清 釈清定 釈隆蓮 釈万法 釈貞意 釈大吉 |
能海(のうかい、1886年1月20日 - 1967年1月1日)は、中国のチベット仏教と禅宗臨済宗の僧[1]。字は緝熙と闊初、法名が能海で、俗姓は龔学光。四川省綿竹市漢旺鎮出身。
略歴
[編集]1886年、四川省綿竹市漢旺鎮に生まれる。父の龔常一は商人。母は張氏。幼年の時、両親が亡くなって、能海と姉は互いに頼りに生きて。14歳の時、能海は成都恒升通匹頭業店で丁稚になっている。20歳の時、陸軍学校卒業、卒業後は雲南講武堂教官を務める。1910年、能海は日本へ渡航し、政治と実業を考察する。能海は仏教に接触し始めた。
1924年(民国13年)、39歳で涪陵天宝寺にて出家得度、佛源に師事、禅宗臨済宗第44世法脈。1925年(民国13年)、成都市新都区の宝光寺の釈貫一のもとで具足戒を受ける。1928年から1940年まで、西藏宗喀巴大師28代継承者の康薩仁波切に師事する。
1936年、能海はネパールを経由して、インドで、海の輪廻上海。後、五台山の広済寺に住した。1937年、能海は成都市南郊の近慈寺くに住む、寺には住まなかったが再興に尽力し、威德殿、大師殿、藏経棒、沙弥堂、訳経院、金剛院、方丈寮創立。
1949年後、全国人大代表、山西省政協委員、中国仏教協会副会長、山西省仏教協会会長を歴任する。
1966年、毛沢東は文化大革命を発動する。広済寺茅蓬に移り、能海は集団労働に参加させられた。1967年1月1日、五台山碧山寺にて示寂。享年81で入滅。法臘43。
著書
[編集]- 『菩提道次第論科頌講記』
- 『皈依三宝始終学修攝要頌』
- 『四分律藏』
脚注
[編集]- ^ “高僧辈出的五十年代” (中国語). 鳳凰網. (2010年3月26日)