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能美賢次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
能美賢次
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 不詳
別名 通称:四郎
主君 大内義隆大内義長
父母 父:能美仲次
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能美 賢次(のうみ かたつぐ)は、戦国時代の武将。大内氏家臣。通称は四郎。能美仲次の子[1]

生涯

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天文22年(1553年)3月7日、能美四郎は大内氏重臣・陶晴賢の加冠により元服。晴賢の偏諱を受けて賢次を名乗った[2]

中渡島を攻める

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元服から遡ること7年前の天文15年(1546年)8月15日、能美四郎は冷泉隆豊が指揮する大内水軍の将の一人として伊予国越智郡中途島(現・愛媛県今治市中渡島)で戦った[注釈 1]。相手は大内氏と敵対する能島村上氏村上義益だったと考えられる[1][4]。この合戦で郎従渋屋小次郎が右股に矢傷を受け、四郎は大内氏から感状を得ている[5]

脚注

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注釈

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  1. ^ 大内氏家臣・光井兼種も同日の合戦に参加している[3]

出典

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  1. ^ a b 藤井崇『大内義隆』ミネルヴァ書房 2019年 p.226
  2. ^ 「山野井文書」(広島県 編 『広島県史 古代中世資料編4』 1978年 p.125)
  3. ^ 「大内家御判物并奉書写 安富恕兵衛」(和田秀作 「大内氏家臣安富氏の関係史料について(二)」(『山口県文書館研究紀要』28 2001年))
  4. ^ 山内譲 『中世瀬戸内海地域史の研究』 法政大学出版局 1998年 p.131
  5. ^ 「山野井文書」(広島県 編 『広島県史 古代中世資料編4』 1978年 p.124)

参考文献

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  • 藤井崇『大内義隆』 ミネルヴァ書房 2019年