興徳寺 (瑞浪市)

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興徳寺
所在地 岐阜県瑞浪市稲津町小里2600-1
位置 北緯35度20分34.4秒 東経137度16分24.7秒 / 北緯35.342889度 東経137.273528度 / 35.342889; 137.273528座標: 北緯35度20分34.4秒 東経137度16分24.7秒 / 北緯35.342889度 東経137.273528度 / 35.342889; 137.273528
山号 全源山
宗派 臨済宗妙心寺派(龍泉門派)
本尊 釈迦如来
創建年 慶長6年(1601年)
開山 当林
開基 小里光親
中興年 寛永11年(1634年)
中興 全源宗耽
札所等 美濃瑞浪三十三霊場十三番
文化財 県指定:木造菅公像
法人番号 4200005008543 ウィキデータを編集
興徳寺の位置(岐阜県内)
興徳寺
興徳寺
興徳寺 (岐阜県)
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興徳寺(こうとくじ)は岐阜県瑞浪市稲津町小里にある臨済宗妙心寺派の龍泉門派の寺院。山号は全源山。美濃瑞浪三十三霊場十三番。

歴史[編集]

慶長6年(1601年)、江戸幕府旗本となった小里光親が父である小里光明の菩提を弔うために小里城の山麓に興徳寺を開基し、當林を招いて開山した。

慶長14年(1609年)、城山の崩壊により興徳寺が流出したため、以前この地にあった中世小里氏(新城小里氏)[1]の菩提寺であった大蔵寺の跡地(現在地)に再建した。

その後、元和9年(1623年)、近世小里氏(城山小里氏)は後継が無く断絶したため、檀越を失い寺運が傾いたが、

寛永11年(1634年)に全源宗耽が当寺の住持となり中興した。

元禄9年(1696年)に伽藍を焼失したが、宝永元年(1704年)に再建を果たした。

江戸時代に末寺であった、小里の永泉寺・羽広の廣澤庵・須之宮の陽光寺は、明治初年に廃寺となったが、市原の禅躰寺は存続している。

山門下には、明治24年(1891年)10月28日に発生した濃尾地震の犠牲者の供養塔がある。

寺宝[編集]

菅公像[編集]

かつて、この地に存在した中世小里氏(新城小里氏)の菩提寺であった大蔵寺で祀られていたと伝わる、延文2年(1357年)制作の木造菅公像(岐阜県指定有形文化財)を所蔵している。

胎内には、「天満大自在天神 願主能登守源頼幸 大佛師法橋宗慶作之 延文二年 丁酉卯月」と記されている。

茶壺[編集]

かつて興徳寺にあった茶壺は、小里氏の知行所であった恵那郡大川村(現・瑞浪市陶町大川)に所在した大川窯の陶工、羽柴与左衛門景度の作品と伝わる。

羽柴与左衛門は、大川窯を開いたとされる加藤左衛門尉景信から数えて4代目にあたり、戦国時代末期に大川窯の最盛期を築き上げた人物である。

高さ約54cm、最大径約46cmという、他に類を見ないほどの大型の茶壺で、底部には「与左衛門」の文字と「クルミ印」と呼ばれる印が見られる。全体に黒褐色の鉄釉を施し、肩の部分には黄色の灰釉が流し掛けられ、4箇所に耳が取り付けられている。

壺の大きさ、力強い作りに陶工の技術の高さが表れている優品の茶壺であり、昭和54年(1979年)3月2日に、瑞浪市の文化財に指定された。現在は瑞浪市明世町にある瑞浪市陶磁資料館で保管され、一般に公開されている。

関連リンク[編集]

参考文献[編集]

  • 『瑞浪市史 歴史編』 第五章 文化と信仰(文化宗教史) 第二節 寺社と信仰 p1027~p1028 瑞浪市 昭和49年(1974年)
  • 『ふるさとの歴史 : 郷土学習のための各町概史 (瑞浪市郷土史シリーズ ; その1)』 稲津町概史 一、小里村 p247~p259 渡辺俊典 著 瑞浪市郷土史研究会 1983年
  • 『妙心寺寺院録』 p140 江西蓼州 大正10年

脚注[編集]

  1. ^ 興徳寺を菩提寺とした近世小里氏(城山小里氏)とは、血縁関係は無い