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沖仲仕

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
船内荷役から転送)
ニューヨーク埠頭でハドソン川上の艀にコーンシロップを積み込む沖仲仕(ルイス・ハイン撮影。1912年頃)
海上コンテナを船に固定する、現代の船内荷役労働者

沖仲仕(おきなかせ,おきなかし)、仲仕(なかし)、ステベドア(ステベ,Stevedore)、船内人夫(せんないにんぷ)は、狭義にはからへの荷揚げ荷下ろしを、広義には陸から船への積み込みを含む船内荷役労働者の旧称[1][2][3][4]。今日の日本においては「沖仲仕」という言葉は差別的であるとされ、一般の報道などに際しては自主的に「港湾労働者」などに置き換えられて表現される。

1960年代以前の貨物船のほとんどは在来型であり、荷揚げ荷下ろしの作業は、本船から、艀から桟橋と荷物を移動させるために、多くの作業員を要する仕事であった。港湾荷役事業は元請けの下に複数の下請けがあり、第三次、第四次の下請けが現場作業を担当した。体力のない下請けは作業員の雇用維持が出来ず、手配師と呼ばれるコーディネーターに人集めを依頼する形態が常態化した。高賃金で体力勝負となる労働現場は荒くれ者が集まることから荒廃しやすく、1915年大正4年)頃の神戸港の例では、沖仲仕の人夫供給業から山口組が立ち上がる例も見られた[5]アメリカ合衆国においても、アルバートアンソニーのアナスタシア兄弟に代表されるマフィアギャングが沖仲仕を取り仕切っていた。

1970年代以降、各地の港湾が整備され海上コンテナによるインターモーダル輸送に置き換わると、艀を使った労働集約型の作業は瞬く間に減少し、沖仲仕は港湾労働者として括られるようになった。現在、船の荷揚げ荷下ろしの作業を行う港湾労働者の仕事は、ガントリークレーンに代表される大型機械の操作などオペレーター的な作業が中心となり、かつて沖仲仕が活躍していた時代とは作業内容が大きく異なっている[6]

日本

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日本でも伝統的に日雇い労働者を多く抱える職業であった[4]

沖仲仕を父に持つ火野葦平自伝的小説『青春の岐路』には昭和初期の沖仲仕の姿が活写されており、「請負師も、小頭も、仲仕も、ほとんどが、バクチ喧嘩とによって、仁義や任侠を売りものにする一種のヤクザだ。大部分が無知で、低劣で、その日暮らしといってよかった。普通に考えられる工場などの労働者とはまるでちがっている」との記載もある。

また学生時代に自らも沖仲仕を経験した生島治郎は「この人夫がいわゆるプー太郎というヤツで、横浜のドヤ街にいくらもごろごろしていた。プー太郎はニコヨンとも言い、これは当時の日給が二百四十円だったことからきている。/手配師が集めてきたプー太郎を会社が日給制で雇うのだが、手配師は会社から払われた日当(デズラと呼んだ)のピンをはね、プー太郎には二百四十円だけ払う」と、当時の沖仲仕を取り巻く状況を伝えている[7]

このような背景もあり、現代の港湾労働法では事業者が日雇い労働者を直接雇用することを原則禁じ、公共職業安定所の紹介を必須としている。

港湾労働経験を持つ著名人

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脚注

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  1. ^ 港湾業務用語集-す-”. 横浜市. 2019年3月閲覧。
  2. ^ 沖仲仕』 - コトバンク
  3. ^ 仲仕』 - コトバンク
  4. ^ a b 『通運読本 第11』通運業務研究会、1954年、52頁。doi:10.11501/2455080 
  5. ^ 構成員約4万人、彼らはなぜ存在するのか~『山口組概論』 猪野健治著(評:荻野進介):日経ビジネスオンライン - ウェイバックマシン(2018年11月27日アーカイブ分)
  6. ^ コンテナ - umidas 海の基本講座|一般社団法人日本埋立浚渫協会
  7. ^ 生島治郎『片翼だけの青春』集英社、1985年9月、177-179頁。 
  8. ^ わたしの失敗 III: 著名35人の体験談”. 産経新聞. p. 193 (2008年5月). 2020年6月11日閲覧。
  9. ^ 生島ヒロシ ファーストクラスでハワイ上陸/連載3 - 芸能 : 日刊スポーツ”. nikkansports.com. 2022年6月15日閲覧。
  10. ^ アルバム「陽水生誕」のライナーノーツより。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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