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船副使麻呂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
船副使麻呂
時代 平安時代前期
生誕 不明
死没 不明
官位 従五位下山城権守
主君 清和天皇陽成天皇
氏族菅野朝臣
藤原良世
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船 副使麻呂(ふね の ふくしまろ)は、平安時代前期の貴族儒学者は船、のち菅野朝臣官位従五位下山城権守

経歴

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河内国丹比郡出身。従七位下・直講に叙任された後、貞観5年(863年)および貞観8年(866年)の釈奠において講師を務め、それぞれ『礼記』と『春秋左氏伝』を講じている[1]。貞観9年(867年従五位下に叙され、本拠地を右京に移す。清和朝において直講・助教を務めながら、儒学者として以下の実績を残している。

  • 貞観13年(871年応天門の変による焼亡から修復した応天門の改名の是非と、応天門・朱雀門羅城門の名称の由来について、大学博士菅野佐世らと共に『春秋左氏伝』『毛詩』『五経正義』に基づき改名の必要がないこと、各門の名称に関しては経典にも記載がないことを旨を言上した[2]
  • 貞観18年(876年)に大極殿で火災があった際、廃朝することおよび群臣が政に従うことの是非について、大学博士・善淵永貞らと共に、『礼記』『春秋左氏伝』に基づき、紫宸殿で政を行うべきでないこと、群臣が政に従うのは当然である旨を言上した[3]
  • 元慶元年(877年平子内親王が薨去した際、天皇は傍系親族のに服さないが、太上天皇(清和上皇。平子内親王は叔母にあたる)が傍系親族の喪に服することの是非について、大学博士・善淵永貞らと共に、『礼記』『五経正義』を基に、上皇が喪に服さずとも礼意に背くことはない旨を言上した[4]

陽成朝に入ると、元慶元年(877年)山城権守として地方官に転じる。また同年12月には同じ百済渡来氏族である内蔵権少充・津輔主および主殿充・葛井直臣と共に菅野朝臣へ改姓している。

官歴

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日本三代実録』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ 『日本三代実録』貞観5年8月7日,貞観8年8月5日条
  2. ^ 『日本三代実録』貞観13年10月20日条
  3. ^ 『日本三代実録』貞観18年4月11日条
  4. ^ 『日本三代実録』元慶元年2月14日条
  5. ^ 『尊卑分脈』

参考文献

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