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船越光之丞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

船越 光之丞(ふなこし みつのじょう、1867年3月16日(慶応3年2月11日[1][注 1])- 1942年昭和17年)8月14日[1][2])は、明治から昭和期の外交官政治家華族貴族院男爵議員

経歴

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安芸国、のちの広島県安佐郡[3](現広島市)で、広島藩士・船越衛の長男として生まれる[1][4][5]。父の死去に伴い、1914年(大正3年)1月29日、男爵を襲爵した[1][5][6]

1881年(明治14年)二松学舎に入学し漢学を修め、1883年(明治16年)獨逸学協会学校に入学[3]1886年(明治19年)3月から1893年(明治26年)12月までドイツ帝国に私費留学し[4][7]、1893年8月、ドクトルの学位を受けた[4]

1894年(明治27年)9月、外交官及領事官試験に合格し[3][4]領事官補に発令されウラジオストック在勤となる[4]。以後、釜山サンフランシスコイギリスオーストリアドイツで勤務した[2][3][4]日露戦争時には公使館二等書記官としてオーストリア在勤で、諜報事務に従事した[4][5]1909年9月、外務書記官・文書課長兼記録課長に就任[4]1912年(明治45年)4月、大使館参事官としてドイツ在勤となるが、1914年(大正3年)8月、第一次世界大戦におけるドイツ断交によりベルリンを退去した[3][4][5]。同年11月、独立第18師団司令部付となり青島の戦いに従軍し[4][5]1916年(大正5年)3月、特命全権公使・メキシコ駐箚の発令を受けたが赴任せず、同月に退官した[3][4]

1916年3月11日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し[8][9]公正会に所属して活動し[2]1932年(昭和7年)7月9日まで3期在任した[2]

栄典

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著作

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  • 述、関野直次編『日独国交断絶秘史』日東書院、1934年。

親族

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  • 妻:松子(山縣有朋次女)[1]
  • 長男:光輔(男爵)[1]
  • 次男:洋平(夭逝)
  • 三男:有光(男爵、陸軍大佐)[1]
  • 叔父:隆義(子爵、海軍大将)

脚注

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注釈

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  1. ^ 『日本近現代人物履歴事典』451頁では慶応3年2月21日。

出典

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  1. ^ a b c d e f g 『平成新修旧華族家系大成 下巻』459-460頁。
  2. ^ a b c d 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』83頁。
  3. ^ a b c d e f 『新版 日本外交史辞典』893頁。
  4. ^ a b c d e f g h i j k 『日本近現代人物履歴事典』451頁。
  5. ^ a b c d e 『人事興信録 第13版 下』フ93頁。
  6. ^ 『官報』第450号、大正3年1月30日。
  7. ^ 『幕末明治海外渡航者総覧 第2巻』292頁。
  8. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、24頁。
  9. ^ 『官報』第1082号、大正5年3月13日。
  10. ^ 『官報』第1105号「叙任及辞令」1916年4月11日。

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第13版 下』人事興信所、1941年。
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 手塚晃・国立教育会館編『幕末明治海外渡航者総覧 第2巻 (人物情報編)』柏書房、1992年。
  • 外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会『新版 日本外交史辞典』山川出版社、1992年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年。
  • 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。


日本の爵位
先代
船越衛
男爵
船越(衛)家第2代
1914年 - 1942年
次代
船越光輔