花山院家雅 (鎌倉時代)
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時代 | 鎌倉時代 |
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生誕 | 建治3年(1277年) |
死没 | 徳治3年8月14日(1308年8月30日) |
別名 | 鷹司家雅 |
官位 | 正二位、権大納言 |
主君 | 後深草天皇→亀山天皇→後宇多天皇 |
氏族 | 花山院家支流 |
父母 |
父:花山院長雅 母:藤原按子(藤原実持の娘) |
兄弟 | 定長、家雅、女子(後宇多院後宮) |
妻 | 日野俊光の娘、陽徳門院播磨局 |
子 | 冬雅、家頼 |
花山院 家雅(かさんのいん いえまさ)は、鎌倉時代の公卿。鷹司家雅とも。正二位権大納言。父は大納言花山院長雅。母は権大納言藤原実持女按子。
早世続く花山院家
[編集]花山院家本家の当主に早世が相次ぐ中、花山院長雅の長男である定長も早世してしまった。二男である家雅が継いだが、家雅も早世してしまった。
経歴
[編集]以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 弘安4年(1281年)12月5日、叙爵。
- 弘安6年(1283年)1月5日、従五位上に昇叙。同年12月16日、侍従に任ぜられる。
- 弘安7年(1284年)1月6日、正五位下に昇叙[1]。
- 弘安8年(1285年)1月5日、従四位下に昇叙。
- 弘安9年(1286年)10月28日、左中将に任ぜられる。同年11月1日、春宮権亮を兼ねる。
- 弘安10年(1287年)1月13日、伊予介を兼ねる。同年10月21日、権亮を止める[2]。同年12月10日、従四位上に昇叙。同日、禁色を許される。
- 正応2年(1289年)1月5日、正四位下に昇叙。
- 正応4年(1291年)1月3日、従三位に叙される[3]。左中将は元の如し。
- 永仁元年(1293年)1月7日、正三位に昇叙。
- 永仁4年(1296年)10月24日、参議に任ぜられる。左中将は元の如し。
- 永仁5年(1297年)8月25日、春宮権大夫を兼ねる。
- 永仁6年(1298年)5月5日、従二位に昇叙。同年3月22日、讃岐権守を兼ねる。6月23日、権中納言に任ぜられる。同年7月23日、春宮受禅(後伏見天皇)により権大夫を止める。大嘗会検校に補せられる。
- 正安元年(1299年)1月5日、正二位に昇叙。
- 乾元元年(1302年)3月21日、中納言に転正。同年11月22日、権大納言に転任。
- 乾元2年(1303年)1月28日、権大納言を辞す。
- 徳治3年(1308年)8月14日、年来所労のため薨去。享年32。
系譜
[編集]父:花山院長雅
母:清水谷按子 - 従三位、権大納言清水谷実持女
- 妻:日野俊光女
- 男子:冬雅
- 妻:陽徳門院播磨局
- 男子:家頼