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若緑陸奥之亟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
花田陸奥之丞から転送)

若緑 陸奥之亟(わかみどり むつのじょう、1936年昭和11年)10月21日[1][注釈 1] - )は、花籠部屋に所属した元力士。本名は花田 陸奥之丞(はなだ むつのじょう)。横綱初代若乃花幹士の弟、大関貴ノ花利彰の兄である。最高位は東三段目27枚目(1958年(昭和33年)1月場所)。

経歴

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青森県中津軽郡新和村(現・弘前市)に父・宇一郎、母・きゑの四男[2]に生まれる[1][注釈 2]。生まれてすぐ、父・宇一郎は陸軍に召集され、母・きゑと長兄・勝治(後の初代若乃花)が働き、長姉がほかの弟妹の面倒を見ていたため、長兄の勝治が陸奥之丞を連れて学校に通った[2]

戦後、長兄・勝治が花籠部屋へ入門。「若ノ花」の四股名で大関に上がった。長兄を慕い、陸奥之丞も花籠部屋に入門し、1956年(昭和31年)9月場所に「若緑」の四股名で初土俵を踏んだ[1]。この場所若ノ花は成績次第で横綱昇進が懸かった場所だったが、場所前に長男を不慮の事故で亡くすという痛ましいことがあった。一時は出場を危ぶまれたが、土俵に上がった。初日から12連勝と勝ち進み優勝争いの先頭に立っていたが、終盤に高熱を発したことにより緊急入院し、13日目から途中休場。熱が下がり、快方に向かい千秋楽に再出場の予定だったが、再び高熱を発したため、千秋楽の土俵に上がることはできなかった。結局優勝と横綱を逃すことになった。

若緑は若ノ花の弟ということもあり、初土俵以来、注目を浴び、序ノ口に付いてから勝ち進み、1957年(昭和32年)5月場所で序二段優勝をした。翌場所は三段目に上がった。しかし、若緑は「自分の兄は若ノ花」という態度が目につき始め、若ノ花がいさめても聞き入れなかった[3]。1957年11月場所は4勝4敗の5分の成績に終わり、翌1958年(昭和33年)1月場所では2勝6敗と初めて負け越した。兄の若乃花は横綱に栄進し、花籠部屋は喜びに沸き返っていたが、若緑は場所後の巡業でやけ酒を飲み泥酔し、タクシー運転手への暴行事件を起こし、警察に逮捕された[3]。保釈されたものの、陸奥之丞は若乃花の妻に口答えするなど、若乃花はこのままでは周囲に悪影響を及ぼすとして、3月場所限りで廃業させた[3]

廃業後は製鉄会社などに勤務した後[4]大阪府堺市でビニール製品を加工する町工場を経営した[5]

後に末弟の満(貴ノ花)が入門した際には、陸奥之丞のこともあってか年寄二子山となった若乃花(若乃花は引退後、花籠部屋から独立して二子山部屋を創設)は入門に強く反対した。最終的には入門を許可したが、二子山は弟子に「(満が)少しでも鼻にかけたらぶん殴ってもいい、変な遠慮はするな」と言い放った[6]。そのため満が兄弟子にいじめられても(飲酒の強制など)見て見ぬふりをするしかなかったという。

大関貴ノ花となり、引退後は年寄藤島から二子山となった満が2005年5月に死去した直後に週刊誌に登場、約半世紀ぶりに公の前に姿を現した[7]

脚注

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注釈

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  1. ^ サンデー毎日』2005年7月17日号25頁には「陸奥之丞さんが生まれたのは(19)34年10月。」と記載。
  2. ^ 当時、花田一家は北海道室蘭市に居住していたが、きゑが出産のために里帰りしたかは不明。

出典

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  1. ^ a b c 『あおもり力士よもやま話』第2巻、66頁。
  2. ^ a b 『私の履歴書 最強の横綱』91頁。
  3. ^ a b c 『あおもり力士よもやま話』第2巻、67頁。
  4. ^ 『サンデー毎日』2005年7月17日号26頁。
  5. ^ 『サンデー毎日』2005年7月17日号24頁。
  6. ^ 『私の履歴書 最強の横綱』176頁。
  7. ^ 『サンデー毎日』2005年7月17日号24-27頁、「親族が初めて明かす 故二子山親方の兄 陸奥之丞さん70歳 『実名で洗いざらいしゃべろう』」。

参考文献

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  • 奈月ひかる『あおもり力士よもやま話』第2巻(北の街社、2012年)
  • 時津風定次・二子山勝治・大鵬幸喜『私の履歴書 最強の横綱』(日本経済新聞社、2006年)

関連項目

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外部リンク

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相撲レファレンス 若緑陸奥之亟力士情報