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若林直則

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
若林直則
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 天文22年(1553年
死没 寛永3年6月30日1626年8月21日
別名 新左衛門、和泉
戒名 日泉
墓所 神田感応寺
主君 上田憲定
父母 若林龍定
山田直義の娘
若林三由妻、三平、山田直時妻、馬場外記妻
直勝三由
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若林 直則(わかばやし なおのり)は、戦国時代の武将。江戸幕府旗本

生涯

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武蔵松山城上田氏の配下で、自身も上田憲定に仕えた。天正18年(1590年小田原征伐の際、憲定は小田原城籠城に加わり、直則ら家臣団は松山城を守備する。松山城は前田利家上杉景勝らの攻撃によって落城し、以後は前田軍に加わった。天正19年(1591年)関東に移封された徳川家康槍奉行として仕え、相模国内に1100石を領した。江戸開府後はそのまま旗本となり、寛永3年(1626年)に没した。嫡子なく、当初は武田氏家臣町田氏から女婿直勝を迎えていたが早世したため、直勝室を長繁由の子三由に配して養子とし、三由と実子三平で分割相続された。

出典

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